母には、母と姉とのことで、私に及ぼした影響のことで、
恨みのようなものがあったのだけれど。
発達障害のことを知ってから、
母も姉も(私もだ)発達障害持ちでは仕方がなかったと、
母を許せるようになっていた。
でも、恨みのようなものが、すっきり消えたということでもなくて。
で、その母から、最近、片手の親指が、動かなくなってしまって、
いよいよかと思ったけど、毎日、撫でていたら、動くようになってきて、
という話しを聞いて。
ああ、母も、そういう年なんだなあというのが、改めて迫ってきて。
なんだか、母に、
お母さんは、恵まれているねえ、本当に、とか、言いまくった。
母は、自分より恵まれていない人々と比べては、
自分を恵まれているとする手法で、いろいろ乗り切ってきたところがある。
私は、その手法が、どうにも性に合わないのだけれども、
(なんなら、自分よりちょっと上の人と比べては、落ち込むから、
比べるクセは同じなんだけど、私の方は、生きにくい。)
なんだか、母を力づけたくて、あれこれ比較の材料を引っ張ってきては、
母が確実に力づけられるような言い方をした。
結果、母は、自分は本当に恵まれているという気分が確かになってきて、
力が戻ってきたのがわかった。
私の方はと言えば、お母さんは、恵まれてるよねえ、と言っている間、
なぜか、心地が良くて、私の体の細胞までが喜んでいるような気さえした。
そして、電話を切った後、母への恨みが全部溶けしまったのがわかった。
自由さを感じて、ああ、恨みは自分の自由さを阻害するんだなと、体でわかった。
振り返ると、私の恨みが完全に消えなかったのは、
親は子に育む愛を注ぐのは揺るがぬこと、という思考への絶対視から来ていた。
それが、母が弱り気味になって、絶対視していた思考が外れてしまい、
母へ愛を注ぎたくて、
自分より大変なものと比べて優越すべきではない、という自分の思考も外して、
母へ愛を注ぐことになって。
二つの絶対視していた思考の信念体系が、外れて、
そこで起こったことは、
恨みから解放された自分の、心地良さと自由さ。
体をつくっている細胞は、
健康であるようにとか、心地良くあるようにとかが、
デフォルトだと、Ezumiさんの1dayクラスで聞いて。
思考は、人が生きやすいように、便宜的に利用するものなのに、
便宜的に使うのではなく、絶対視で使うということが起きると、
そもそもの細胞自体に組み込まれている、
健康と心地良さへの働きを、
阻害することになってしまうんだなあと、つくづく。
心地良く自由さを感じていくためには、
絶対視している思考を発見して、外していくのは、必須だとして、
ムリに外そうとしても、そうそう外せないほど、
ガッツリ、思考(信念体系)が、食い込んでいる発達障害持ちの私だ。
なので、外せない思考があるなというところまでは、認識しておくとして。
(あるものをあるとして、
批判も批評も付け加えず、ただ認識するだけでも、
自由さを感じるところへと、繋がっていったりする)
あとは、日常の小さいことで、どうするか迷ったら、
細胞レベルまでイメージを膨らませて、細胞が心地良いかどうか、
この辺を、まず、イメージしてみて、
イエスなら、やるし、ノーなら、やめておく、
なんてことを、しばらく、やっていってみようかな。
そうすると、今回みたいなことが、
また起こらないとも、限らないんじゃあないかと・・・
2匹目のナントカ、狙いすぎ?(あれ、そんな諺はない?!)
まあでも、小さな心地良さは、
優先しましょ、ということで、イイかな。
って、それは、大部分の人々には、
当たり前のことなのかもしれないけど、
発達障害持ちの私には、それも、練習が必要。
ふぅ。