祝福って、
自他の分離がきちんとできていないと、
できないものだなあと。
自分は自分、というのが揺るがぬ中心にあると、
誰にどんな良いことがあっても、
それは良かったと祝福できるけど、
自他の境界に少しでも曖昧さがあると、
誰かに起きた状態が闇雲に欲しくなったり、
妬み、嫉み、嫉妬、不快感、などなど、
祝福できたもんじゃあない。
最近、自分の周辺で、良いことが起きてる人々がいて。
何か、私は、ぐぬぬとなっていたりした。
同じことを見て、ある知人は、
おお、それは良かったね、と言って。
いつもこざっぱりしているその人だけれども、
あれ、こんなに美しかったかな、と思う感じがした。
その人の境遇は、良いことが起きている人々とは、
こう言っちゃなんだけど、格段の差がある。
で、その人にとっては、別段興味のないことでの良いことなので、
でも、周辺の人々に起きている良いことは、
世間一般的には祝福できることだから、
素直に、良かったね、と言っているのが伝わってくる。
なんだろう、この比べなさは、と。
徹底的に、自分を受け入れていて、良しとしているんだなと。
その徹底的さが、とても自分を愛している感じに映る。
その人には、愛だなんて言葉は、しゃらくさくて、存在してないだろうけど。
それが、自他の境界をはっきり存在させていて、
他を祝福できることに繋がっているんだろうなあと。
以前聞いた言葉に、
一つの全体があるだけではあるにしろ、
この世という3次元の世界では、
自他が分離していて、健全です、というを思い出した。
非二元の真理は、ただ唯一の何かがあるだけとして、
この世という幻想ゲーム(リーラ)の中では、
分離してのプレーなんだと。
自他の分離がしっかりできて、
気楽に他を祝福できるその人を見ていると、
祝福できるって、
最高のプレーなような気がする。
まぁ、その人と私を比べるのも、やめとこ。
他と比べるというのが先走ってばかりだと、
自分を徹底的に受け入れるという、
祝福プレーへの最初の一歩を阻害するからね。
周辺に良い例があって良かったと思うにとどめておく。
余談だけど、母が、以前、この歳になっても、身近で比べるようなことが起きると、
畜生め、なんて思ったりするからねえ、とため息混じりに言ったことがあったけど、
私もその頃の母と同じような年齢になって、いや、まったけ、いっしょやんと。
私も母も発達障害(母は無自覚)だから、そうなのか、
ただ、学びがごっつう遅いというだけなのか。
ちなみに、私は、自分を受け入れるというのを、
取り掛かりは、境遇とか外なることでもなくて、
まず、内側に湧いてくる、色々なものを、認識することが、
自分を受け入れることのスタートだと思っていて。
最近は、体に起きている、色々な感覚を、認識するのも、
自分を受けいることのスタートには良いなと。
ああ、話しがズレていきそうだ。
ADHDアルアルだ。
なので、こんへんにしとこ。