川之江城

 

【築城年】延元2年/建武5年(1337) 【築城者】土肥義昌 

【遺構】郭・石垣 【形態】山城 【別称】仏殿城

 

【歴史】

 川之江城は、延元2年/建武4年(1337)に、伊予国(愛媛県)の南朝方の武将・河野通政が、家臣の土肥義昌に命じて築かせた山城です。興国3年/暦応5年(1342)には北朝方の細川頼春に攻められて落城していますが、南北朝時代を通じて川之江城は讃岐・伊予におけ

る南朝方と北朝方の争奪戦の対象となったため、この後も2度落城の憂き目に遭っています。

 

 戦国時代に入ると、ようやく川之江城は伊予国守護の河野氏の持城として帰属が定まり、家臣の妻鳥氏が城主として入城します。元亀3年(1572)には阿波国(徳島県)の三好長治が川之江城を攻めますが、当時の城主である妻鳥友春はこれを撃退。河野氏の所領の最東端に当たる川之江の死守に成功しました。

 しかし、その6年後の天正6年(1578)、土佐国(高知県)の長曾我部元親が伊予国に侵入して川之江城を攻めると、妻鳥友春は降伏し長曾我部方に転じます。これに対し主君の河野通直は家臣の河上安勝を差し向けて川之江城を再度奪還します。安勝は妻鳥友春を打ち取るとそのまま川之江城主に収まりました。

 

 こうして河野氏の支配下に戻った川之江城でしたが、天正10年(1582)には四国平定を目指す長曾我部元親に再度攻められてまたもや落城。以後、天正13年(1585)の豊臣秀吉による四国平定まで長曾我部氏の支配下にありました。

 

 豊臣秀吉による四国平定後、川之江城には独立した大名が配置される事はなく、小早川隆景(湯築城主)・福島正則(国分山城主)・池田秀雄(国分山城主)・小川祐忠(国分山城主)といった伊予国中部・東部に本拠を構えた織豊系大名の支城として存続していたようです。慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後には、中予・東予20万石を与えられた加藤嘉明(松山城主)の支城に組み込まれ、一門で家臣の川村権七が城代として派遣されますが、元和の一国一城令(1615)もしくは慶長16年(1611)に廃城になったと云われています。

 

【構造】

 川之江城は標高60メートルの鷲尾山(城山)に築かれた山城です。

 標高自体そこまで高くありませんが、山頂からは瀬戸内海や川之江・三島の町が見渡せる風光明媚な立地です。

 加えて川之江は伊予・讃岐・阿波・土佐の4ヶ国の国境に隣接し、伊予街道・讃岐街道・阿波街道・土佐街道という四国内の主要街道が交差する交通の要衝でした。南北朝時代から戦国時代にかけて何度も落城の憂き目に遭っているのはそういう地理的な問題が背景にあります。

 

 城の縄張りは戦後の公園化によりわかりにくくなっていますが、山頂部の天守が立っている郭1を主郭とし、そこから北側にかけて郭2・郭3が連なる連郭式の縄張りを持つ城郭であったと推測されます。なお、郭1の南側にも一段下がったところに郭4が配置されていました。

 加えて城の位置する鷲尾山のすぐ東側には瀬戸内海が迫っている点も見逃せないポイントです。海上交通を利用した物資の荷揚げにも適していますし、海陸双方の交通の要衝に城が築かれている事がわかります。

 

 遺構としては先述したように公園化に伴ってほとんど消滅していますが、郭と一部の石垣が残存しています。

 なお、川之江城では昭和59年(1984)以降、公園化事業により天守・涼櫓・隅櫓・櫓門・土塀・石垣等が新規に建てられましたが、いずれも鉄筋コンクリート造りの模擬建築であり、史実に即したものではありません。

 

【感想】

 公園化によって遺構が消滅してしまっているのが残念な城ですが、模擬天守の3階からの眺望は絶景であり、川之江城が伊予・讃岐・阿波・土佐の4ヶ国の国境地帯に位置している事がわかります。訪れた当日は真夏の晴れの日であったため、陸地も海もきれいに見渡せた事が非常に印象に残っています。

 

【住所】

愛媛県四国中央市川之江町1087-4(城山公園)

 

【交通アクセス】

JR予讃線川之江駅下車徒歩20分。

 

               ↑模擬櫓門

郭2から郭1(=主郭)へ入る虎口に設けられた模擬櫓門。

周りの石垣も新しそうで、そもそも往時はここに虎口自体存在したかどうかも

わかりません。櫓門のデザインだけはかっこいいなと思うのですが・・・(汗)

 

               ↑郭2と涼櫓

郭1から北側に一段下がった場所にある郭2。

奥に少しだけ見えるのは模擬建築の涼櫓。

 

          ↑模擬天守3階からの眺望①

北側(讃岐方面)の眺望です。真下の広場が郭1(=主郭)です。

瀬戸内海と快晴の夏空の組み合わせが最高でした。

 

         ↑往時のものと見られる石垣①

郭1の東側にわずかに残る往時の石垣の一部。

隅角部が算木積なのがわかります。

とはいえ、一回積み直しを受けている可能性も否定できません。

 

         ↑往時のものと見られる石垣②

郭4の南側に見られる石垣。これも比較的古い時代のもののように

見えます。

 

【訪城年月】

平成27年(2015)7月