直谷城


                 【築城年】1243年~47年? 【築城者】志佐氏?

                 【遺構】郭・土塁・石垣・堀 【形態】山城 【別称】内裏山城


                    

【歴史】

直谷城は築城時期が鎌倉時代までに遡るとされる山城です。

築城者ははっきりとわかりませんが、少なくとも戦国時代には松浦党の一党である志佐氏が居城としていました。


志佐氏は松浦党の中でも強大な力を誇っていたようで、本家の平戸松浦氏同様に琉球や朝鮮とも交易を行い、それが志佐氏の力の源泉となっていたようです。


しかし、戦国時代も後半になると平戸松浦氏や、有馬氏・大村氏といった近隣の諸豪族との争いに巻き込まれ、直谷城も度々これらの諸豪族に攻められます。


さらに志佐氏内部では後継ぎを巡って内紛も勃発。

平戸松浦氏が推す候補(志佐純意)と有馬氏が推す候補(志佐純量)に分かれて争いますが、結果的には松浦氏が推す純意が勝利します


後継ぎ争いを制した純意でしたが、この内紛以降、松浦氏の影響力が志佐氏内部に及ぶようになり、志佐氏は松浦氏の家臣という立場に置かれるようになりました。


1587年(天正15年)以降は、直谷城を含む吉井一帯は松浦氏の領地として豊臣政権からも認められ、直谷城は松浦氏の支城という位置づけになりました。


1615年(元和元年)の一国一城令により廃城。



【構造】

直谷城は標高175メートルの内裏山に築かれた山城です。

一見標高が低そうに見えますが、周囲は切り立った崖になっており、下から本丸部分にたどり着くにはそれなりに時間がかかります。


本丸(以下一之郭)は山の頂上に置かれ、西側に天守郭と称される巨大な櫓台と東側にも櫓台を備えているのが特徴です。

その天守郭の西には二之丸(以下二之郭)、さらに西には堀切を隔てて物見台がありました。

さらに一之郭・二之郭の周囲には武者溜まりと呼ばれる小郭が無数に展開しています。


大手口は南にあったとされ、二之郭につながっていましたが、その途中には四連の堀と土塁が障壁として設けられており、大手口からの敵の侵入も迎え撃てるようになっていました。


なお、大手口の反対側には搦手口がありましたが、こちらは大手口のような目立った障壁は見られず、急斜面を生かした登城口になっていました。



【感想】

長崎県の史跡になっているだけあって、遺構の残り具合・整備状況共にいい城だと思います。

ただ、植生の問題でしょうか、シダが遺構を覆っていて見づらいところが目立っていたのが残念でした…

3月下旬に訪問してこの感じでしたから夏場はもっとすごい事になると思います。(汗)


あと天守郭という巨大な櫓台を見て、松浦氏が所有していた最末期の直谷城には天守に相当する櫓があったのか個人的には気になるところです。



【住所】

長崎県佐世保市吉井町直谷字内裏



【交通アクセス】

国道204号線を佐世保方面から北上し、住吉交差点から県道40号線に入り、道なりに進むと佐世保市立吉井北小学校が左手に見えてきます。

その小学校の手前の交差点を左折し、小学校の裏手まで行くとそこから登城道が始まるようになっています。



←直谷城イラスト


 登城口の前にあったイラスト看板。

 往時の直谷城のイメージがしやすくなっています。










←大手道を遮断する空堀と土塁


 大手口を登っていくと途中このような土塁と空堀に

 出会います。

 写真ではうまく捉える事が出来ませんでしたが、四

 連構造になっています。

 







←二之木戸


 四連の土塁と空堀を越えると、二之木戸に到着しま

 す。

 城内でもこの門の周囲だけ石積が見られます。










←本丸(一之郭)


 内裏山山頂に置かれた郭で城内でも一番広い郭で

 す。


 この写真では写っていませんが、この一之郭の東端

 にはそこそこの規模の櫓台が残っています。







←天守郭(天守台)


 本丸西端に築かれた天守郭ですが、郭というよりそ

 れ自体が巨大な櫓台といった感じです。


 








←天守郭(天守台)の上


 由来が不明の祠があります。











←大手道脇にあった井戸


 円形で周囲で石積みで固めています。











【訪城年月】2013年3月