安田城
【築城年】1585年? 【築城者】豊臣氏? 【遺構】郭・堀・土塁
【形態】平城 【別称】なし
【歴史】
安田城は築城年代は不明ですが、史料上では豊臣秀吉による越中攻め(1585年)の際に、豊臣軍が本陣を置いた白鳥城(富山県富山市)の支城として登場したのが初見とされています。
この時、安田城には前田利家の家臣である岡嶋一吉が置かれ、富山城(富山県富山市)に籠る
佐々成政軍と対峙していました。
その成政降伏後、安田城は前田家の支城として存続し、引き続き岡嶋が「城代」として在城したようです。
陣城として使用された城が恒久的に利用されるようになった背景は不明ですが、恐らく越中攻め後に破却された富山城に代わって新川郡の統治拠点として用いる事になったのは…と筆者自身は推測しています。
1599年(慶長4年)前田利家が死去し、息子の利長が跡を継ぐと、岡嶋は金沢に戻り代わって平野権左衛門が「代官」として安田城に派遣されます。
しかし、その後の安田城の動向についてはほとんど史料に出てこないため、1615年(元和元年)の一国一城令以前には廃城になったものと思われます。
岡嶋時代は城の責任者の役職名が「城代」だったのに対し、平野時代は「代官」へと変更になっている事がわかりますが、これは軍事拠点から城周辺の統治拠点へと城の性格が次第に変化していった事を表しているといえるでしょう。
【構造】
安田城は井田川下流の西岸地区に築かれた平城です。
本丸を中心に南に二之丸、二之丸の西側に右郭を配置するという実に単純な構造ですが、堀幅がそこそこあり、また東側を流れる井田川も天然の堀と見立てられるため、要害としての機能は十分に持っていました。
また、本丸と二之丸は分厚い土塁で囲まれていますが、この2つの郭を比較しても本丸の方が土塁の幅が広くて分厚い事から往時は本丸に「城代」が住んでいたと思われます。
郭の形も特徴的です。
本丸がほぼ正方形となっているのに対し、二之丸・右郭は郭の形が整っていません。一説にはもともとここには前身となる城があって、本丸部分のみ豊臣軍が改修したという説もあります。
ただ、豊臣軍が改修したという割には、横矢掛りや枡形虎口が採用されていてもいいはずなのですが、その痕跡は見られず。
次回紹介する予定の富山城と構造が非常に似ているという点が特徴的な城です。
【感想】
国指定史跡という事もあり、非常に整備が行き届いた城です。
中世末~近世初頭の平城がどういうものであったかがよくわかりますし、隣接している安田城資料館では安田城に関する基本的な内容を学ぶ事が出来ますので、ぜひセットで訪れてみてください。
【アクセス】
JR高山本線婦中鵜坂駅下車。徒歩20分。
【住所】
富山県富山市婦中町安田
←安田城復元模型
右郭に置かれた復元模型。
郭の形が本丸と二之丸・右郭と違うのがわかります。
←土塁の断面
本丸東側の土塁ではこのように土塁の断面が見学
できるようになっています。
何層にも渡って土が積み上げられているのがわかり
ます。
←本丸虎口
二之丸の北側にあり、平虎口です。
←土塁の上から見た本丸
本丸北東部の土塁上から見た本丸です。
ほぼ正方形で、取り囲んでいる土塁もかなり分厚い
事がわかります。
ちなみにこれらの土塁は発掘調査の成果をもとにし
て現存していた部分を復元整備したものです。
右側に土塁が見えますが、本丸と比較すると厚みも
高さも本丸より小規模というのがわかります。
←二之丸土塁上から見た右郭
わかりづらいですが、北側部分は塁線が湾曲してい
ます。発掘調査でも土塁は見つかっていないようで、
本丸・二之丸とは異質な空間であるといえます。
【訪城年月】2014年10月