可能性としての文学 | 佐原敏剛文学塾

佐原敏剛文学塾

日本文学、海外文学を多角的に分析、批評する。名作といえど問題点は容赦なく批判する。

小説は可能性である。モラルを主軸に据えたものであれ、悪魔主義であれ耽美主義であれおよそ小説である以上、どこまでも可能性を追求するのが小説である。日本独自の伝統である私小説になると小説本来の仕事をうっちゃってあたかも悟ったかのように何もしない。海外から見れば恐らくそうした見方が大勢であろう。日本人が読んでさえそうなのだから海外の波瀾に満ちた物語の愛読者は日本の私小説などに一顧も与えない。ところが困ったことに日本人は悟りを重んずる傾向が強い民族である。小説好きである癖に自分では何もしようとしない。日本人は全てに於いてこの姿勢で人生に対している。ジャーナリズムにしても二葉亭四迷に言わせれば日本の新聞なんぞ海外に比べたら子供の新聞である。小説は単なる物好きが書いたり読んだりするものではない。飽くまでもそれは不可能への挑戦なのだ。作家は好戦的でなければ務まらない。戦いの中にしか芸術は生まれないからだ。戦いには元手が要らない。無から有を生む唯一の方法は戦うことである。もともと私小説の強力な支配下にあって発展して来た日本文学は戦後の全盛期を経て息絶える寸前である。可能性は不可能が存
在する所にある。