哀しき「ジョーカー」 | B級パラダイス

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健康優良不良中年が、映画、音楽、読書他好きなことを気まぐれに狭く深くいい加減に語り倒すブログであります。

先週金曜日、出向元の会社の連中と飲んだ。上司でもある役員の物言いにカチンときて、俺にしては物凄く珍しく、酒の場で言葉を荒げてしまった。驚いた向こうが詫びを入れてきたが許しもしなかった。


「約束」の軽さへの苛立ち。5年過ぎたここでの俺の生活を舐めんじゃねえぞ。

そんなやさぐれ気分と、これを笑って受け流せなかった、てめえの度量の狭さへの自己嫌悪が抜けずに過ごした土曜は、ブログを書く気もせず、映画を観る気もせず、少し出かけて買い物した以外は、ヤフオクで届いた漫画を読み漁り(これはまた日を改めて書きたい)、意味なく夜更かしして過ごした。


空けた昨日日曜。天気の良さに台風の後片付けのご近所には申し訳ないが散歩がてら出かけ、これを観てきた。

ジョーカー JOKER(2019)


監督・製作・脚本:トッド・フィリップス  製作: ブラッドリー・クーパー 、エマ・ティリンジャー・コスコフ 製作総指揮:マイケル・E・ウスラン 、ウォルター・ハマダ、アーロン・L・ギルバート、ジョセフ・ガーナー 、リチャード・バラッタ、ブルース・バーマン 脚本 : スコット・シルヴァー   撮影:ローレンス・シャー   編集:ジェフ・グロス   音楽:ヒルドゥル・グーナドッティル


出演 : ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイ、マーク・マロン、ビル・キャンプ、グレン・フレシュラー、シェー・ウィガム、ブレット・カレン、ダグラス・ホッジ、ジョシュ・パイス、リー・ギル、シャロン・ワシントン、ブライアン・タイリー・ヘンリー、ハンナ・グロス、エイプリル・グレイス


これは観る日が違ったらまた違う印象だったろうが、前述のやさぐれ気分が抜けていない今の俺には痺れる一作だった。


いつかレビューしようと思いつつ未だ書けていない「ダークナイト」。映画そのものも素晴らしかったが、あのヒース・レジャーの凄まじさとは別の、ヒリヒリするような「ジョーカー」が、ここにいた。


観たい映画だったからいろんな情報シャットアウトして臨んだけれど、すぐに思い出したのが「タクシードライバー」だった。

何のことはない、パンフにも記されていたが、監督も意識していたようで、大納得。

映画自体の醸し出す70年代の映画の手触りのみならず、演じるホワキン・フェニックス(最高!)の表情が、鏡の中の自分に語りかける姿が、日記のように書かれたネタ帖が、あのデ・ニーロのトラビスと重なって仕方なかった。ついでに言えば彼の長髪はあの映画のハービー・カイテルを思い出させてもくれたけど(笑)。


今よりもう少し過去の、ゴッサムシティはまさに70年代のニューヨークの雰囲気。

この薄汚れた大都会の片隅でスタンダップコメディアンを目指すアーサー。彼のどん底の生活が、様々な要因で更に坂道を転がり落ちて「ジョーカー」になっていく物語。


いや、側から見れば悲劇的に転がり落ちたのだろうが、彼は彼の意思で「ジョーカー」になったのだ。


「ダークナイト」のヒース版ジョーカーは絶対悪として、対するバットマンというコインの裏表のような「相手」がいた。

共に「法の外」の立場。その善と悪のせめぎ合いは凄まじく、ジョーカーの揺るぎない狂気に対し、「闇の騎士」として自らの正義を貫くバットマンの凄みも引き立つ、正に「ダークヒーロー」の映画だった。


だが本作のジョーカーにはそんなライバルはいない。敢えて言えば敵は「社会」そのもの。だが、その「社会」は彼を「相手」にさえしてくれない。


悪ガキに悪戯されたあげく暴力を受け、行政の予算削減でソーシャルワーカーとの面談も向精神薬も打ち切られてという理不尽。

それまでの不満をなんとか飲み込んでいたのに、またも暴力にさらされて暴発的に反撃してしまうアーサー。その高揚感に戸惑いながらも、そこからは、信じていた母の嘘がわかり、アイデンティティさえ崩れ、観ている我々にも唯一の救いだった女性ソフィーと関係さえも幻だったという絶望が待っている。


人を笑わせたくてピエロを演じ、コメディアンを目指しているのに、自らは本当に笑えることのない彼は、上のパンフの表紙のように、自ら口角を押し上げなければ笑顔になれない。

一方で、皮肉なことに、彼は脳神経の損傷で緊張すると笑いが止まらないのが、本当に哀しい。


その「笑い」のせいで失敗した舞台の様が、憧れていたマレー・フランクリンの番組で取り上げられる望まない仕打ち。マレーをデ・ニーロが演じることで、「キング・オブ・コメディ」を思い出してしまうのは無理ないところだ。


やがてアーサーが意図しないところで、彼の「ピエロ」の扮装がシンボリックに社会の不満の吐口として加速をつけて立ち上がっていく。

「何者」でもなかった彼が、その暴動のうねりに、初めて自分の価値を認め、自ら「笑う」哀しさ。


そして、アーサーはマレーの番組で自らが「ジョーカー」になることを選ぶ。

そこでの彼の暴発は、彼の「敵」が社会そのものが「相手」であることを確定させてしまう。


悲劇は喜劇と紙一重。悲しい物語も立場が変われば喜劇だ。その逆も然り、こんなのは歳食えばいくらでも経験があるが、なんか改めて身につまされた。

「笑顔」が張り付いたアーサーの姿に流れる、モダンタイムスの「スマイル」の調べが、こんなに哀しく響くとはね。



てっきり絶対悪のジョーカーの誕生譚かと思ったのに、負け犬がのたうち回り、涙を流し、それをピエロのメイクの下に隠して、狂気に踏み出す哀しい話だったのだ。


ああ、これはまさに俺が惹かれる「私的映画ジャンル其の四 負け犬暴発映画だったのだ。


アーサーは現実では正直近くにいて欲しくない種類の人種だ。トラビスと同じように。


家族をはじめ、世界のあらゆることが愛しいと思う自分がいる。

だが、この哀しき狂人の暴発と、引き起こされた混乱の物語に堪らなく惹かれてしまう俺もまたいる。


また違う日に観れば嫌悪感を覚えるかもしれない。しかし、麻薬のように痺れ浸れる一本であることもまた間違いない。


色んな意味で家族と観ないで一人で観て正解だった。


因みにやたら多かった若い観客が始まる前はお喋りが酷かったが、終わった後は皆黙りこくっていたのも正解だ()

若いうちからこうした「毒」や「理不尽」まみれの映画をたくさん見ておいた方が、これからの人生に耐性がついていいと経験者は強く思うぞ(笑)。