朝一番から自転車でまた一人、映画館に。
アメリカン・スナイパー(2014) AMERICAN SNIPER
監督:クリント・イーストウッド 製作:ロバート・ロレンツ、アンドリュー・ラザー、ブラッドリー・クーパー、
ピーター・モーガン、クリント・イーストウッド 原作:クリス・カイル、スコット・マキューアン、ジム・デフェリス
脚本:ジェイソン・ホール 撮影:トム・スターン
出演:ブラッドリー・クーパー、シエナ・ミラー、ルーク・グライムス、ジェイク・マクドーマン、ケヴィン・レイス、
コリー・ハードリクト、ナヴィド・ネガーバン
観て良かった。無駄なことが一切無い、しかしズシリとくる映画だった。
イラクで敵160人を殺した「伝説」のスナイパー、クリス・カイル。
戦場での彼は、狙撃手として、歩兵部隊が安全に任務が果たせるよう
いち早く敵を捕捉して、これを排除するまさに「番犬」の役目を果たす。
幼いころ、彼は厳格な父から人間は3種類に分けられると教えられる。
自らを守る力が無い「羊」と、暴力でそれを食い物にする無法な「狼」。
そして弱いものを守る力を持つ「番犬」。
彼は非力な弟を守ったことで父に褒められ、自らを「番犬」であると思う。
長じて、ただのテキサスの荒くれ者だった彼は自らの国を守ることに目覚め、軍に志願、厳しい訓練を経て最強特殊部隊シールズに入隊し、愛する女性タヤとも結婚する。
しかし翌年には9.11以降のイラクに派兵される。
(余談だが映画のテロップで派兵が「TOUR ツアー」と表記されていたのには驚いた)
初めての任務で排除した敵は、子どもと女性だった。
彼は部隊に対戦車手榴弾を投げようとする、子どもと女性を彼の判断で狙撃。
任務を果たし仲間を守る彼だが、この最初の狙撃だけは堪えた表情を見せる・・・。
こうして何処にでもいそうな典型的なアメリカ中西部のカウボーイだった彼が
「国を守るため」に着実に任務をこなし、優秀なシールズ一のスナイパーになっていくその姿を
イーストウッドは称えることも糾弾することも無く淡々と見せていく。
クリスにしてみれば彼は「番犬」として弱い者を守りたいだけだったのだ。
だから、迷いが無い。
迷いが無いから、戦場では「強い」。
仲間からその功績を「伝説」として賞賛されるが、嬉しそうな顔はみせない。
彼にしてみれば当たり前のことをしているだけ、なのだろう。
愛する妻も、生れてくる子どもももちろん愛している。
だが、ある意味家族以上に「国を愛し守ること」が彼のアイデンティティになっていく。
戦場という異常なフィールドで、強さゆえに生き延びる彼の心は、いつしか蝕ばられていく。
国に帰還しての日常でも大きな音やに過剰に反応したり、少しのことで激昂する。
タヤにも「身体はここにあるのに、心が帰ってきていない」と言われるが
彼の「強さ」はその「弱さに起因する異常」を認めたくない。
故に戦場に帰ることを選んでしまうというのがやりきれない。
2km近く先の敵を捕捉できる高性能のライフル。
戦場からアメリカにいる妻に電話できてしまう携帯電話。
技術の進歩で高性能になったツールは多いが
歩兵部隊の市街戦は、どんな戦争でも同じで一番アナログだ。
しかも民間人もいる街中での正規軍ではない武装組織との戦い。
映画でのその戦場の臨場感、緊迫感が凄いだけに
彼の心が普通の日常と相容れなくなってしまうのも凄く説得力がある。
4回の「ツアー」で蝕まれた彼の心は、160人を殺めた代償でもあったかのように
彼をヒロイックに描くことは、全くと言ってない。
しかし、国を家族を愛した彼を「殺人者」として追求することも、また無い。
敵スナイパーとの対決など、もっと映画的に派手にすることもできただろう。
劇伴として勇壮にまたはセンチメンタルに盛り上げる音楽さえもほとんど無く
まるで効果音的にしか響かずと、ないないづくしのソリッドな仕上がり。
極めつけは、葬送ラッパの後の、この映画の意味を自分で考えてくれと言わんばかりの
無音のエンドクレジットには、やられてしまった。
日本版はアメリカ版の公開後の星条旗の入ったポスターを使っているが
自分は冒頭に示した最初のデザインの方がこの映画にはふさわしいと思う。
アメリカでは愛国者の多い中西部でヒットしたが故に星条旗を入れたらしい。
だがこの映画は愛国心を謳っているようで、実は極めて「個人」の物語だ。
実話であるこの重さを、PTSDの現実を噛みしめれば噛みしめるほど
これが「好戦的愛国映画」とはまったく逆であることはすぐわかる。
戦争では個人の「想い」はこうして壊れていくのだという「事実」を
まるでドキュメント映画のようにイーストウッドは静かに差し出してくれたと思う。
このところジャンル映画ばかり観ていたけど、やはり映画はいいなと心から思える1本だった。
フューリーを見逃したのが本当に悔まれるな・・・。
仲間からその功績を「伝説」として賞賛されるが、嬉しそうな顔はみせない。
彼にしてみれば当たり前のことをしているだけ、なのだろう。
愛する妻も、生れてくる子どもももちろん愛している。
だが、ある意味家族以上に「国を愛し守ること」が彼のアイデンティティになっていく。
戦場という異常なフィールドで、強さゆえに生き延びる彼の心は、いつしか蝕ばられていく。
国に帰還しての日常でも大きな音やに過剰に反応したり、少しのことで激昂する。
タヤにも「身体はここにあるのに、心が帰ってきていない」と言われるが
彼の「強さ」はその「弱さに起因する異常」を認めたくない。
故に戦場に帰ることを選んでしまうというのがやりきれない。
2km近く先の敵を捕捉できる高性能のライフル。
戦場からアメリカにいる妻に電話できてしまう携帯電話。
技術の進歩で高性能になったツールは多いが
歩兵部隊の市街戦は、どんな戦争でも同じで一番アナログだ。
しかも民間人もいる街中での正規軍ではない武装組織との戦い。
映画でのその戦場の臨場感、緊迫感が凄いだけに
彼の心が普通の日常と相容れなくなってしまうのも凄く説得力がある。
4回の「ツアー」で蝕まれた彼の心は、160人を殺めた代償でもあったかのように
彼をヒロイックに描くことは、全くと言ってない。
しかし、国を家族を愛した彼を「殺人者」として追求することも、また無い。
敵スナイパーとの対決など、もっと映画的に派手にすることもできただろう。
劇伴として勇壮にまたはセンチメンタルに盛り上げる音楽さえもほとんど無く
まるで効果音的にしか響かずと、ないないづくしのソリッドな仕上がり。
極めつけは、葬送ラッパの後の、この映画の意味を自分で考えてくれと言わんばかりの
無音のエンドクレジットには、やられてしまった。
日本版はアメリカ版の公開後の星条旗の入ったポスターを使っているが
自分は冒頭に示した最初のデザインの方がこの映画にはふさわしいと思う。
アメリカでは愛国者の多い中西部でヒットしたが故に星条旗を入れたらしい。
だがこの映画は愛国心を謳っているようで、実は極めて「個人」の物語だ。
実話であるこの重さを、PTSDの現実を噛みしめれば噛みしめるほど
これが「好戦的愛国映画」とはまったく逆であることはすぐわかる。
戦争では個人の「想い」はこうして壊れていくのだという「事実」を
まるでドキュメント映画のようにイーストウッドは静かに差し出してくれたと思う。
このところジャンル映画ばかり観ていたけど、やはり映画はいいなと心から思える1本だった。
フューリーを見逃したのが本当に悔まれるな・・・。