メディアに蔓延るカルト脳は、文化の共生か「血まみれ農夫の侵略」 | 流浪の民の囁き

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映画を通した過去・現在・未来について、なぐり書き

日本では「言論の自由」がおおっぴらで、何より第四の権力として燦然と「メディア」が

影響力を行使して、それなりの一部の賛同を得ているから、読んでいると「カルト」臭

を感じてしまうのものでも、さっさと公表してしまうのだが・・・。


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人は生まれながらにして自由で平等であり、幸福を追求する権利を持つ。
つまり自分らしく生きたいと願う権利は、誰にも侵すことのできない人類普遍のものだ。
川崎市の福田紀彦市長はその権利を侵す判断を下した。
表明した朝鮮学校への補助金不交付は人権意識の欠如をさらし、
誰もが自分らしく生きられる地域社会づくりという首長の責務を放棄するも同然だ。
学ぶ権利、それは自分らしく生きるため保障されているものにほかならない。
日本人の子どもは日本の言葉と文化、歴史を当たり前に学ぶ。
同様に、いかなる民族に対してもその権利は守られなければならない。
朝鮮学校への補助金はそうした当然の権利擁護のための役割を担う。
それを不交付とした判断が意味するものは、朝鮮学校で行われてきた民族教育自体の

否定、 朝鮮人が朝鮮人として生きることの否定である。
市長は補助金自体に「特別な感じなものがなぜあるのか」と疑問を呈した。
しかし、恩恵でも「特権」でもないことは歴史に明らかだ。
朝鮮学校は日本の植民地支配によって奪われた民族の言葉と文化を取り戻すために

始まった。
その回復は奪った側によってなされるべきなのに、政府は責任を果たさないばかりか、
在日が立ち上げた学びやを不当に扱ってきた。高校無償化の対象から除外したのも

その一例だ。
自治体による補助金制度は不十分ながら、国の不作為を補うものとしての意味を持つ。
地域社会の一員として在日が暮らす実情を踏まえた判断でもあった。
それなのに市長は不交付の理由に県が補助金を打ち切ったことを挙げ、
市の施策の独自性と自主性を自ら否定し、放棄した。
在日2、3世の親たちは振り返る。自分が通った日本の学校では差別を恐れ、
出自を隠し日本人のように振る舞った。それは親を否定することでもあった。
わが子にはそんな悲しい生き方をしてほしくない。
朝鮮学校に学び、朝鮮人としての自分を肯定的に受け止めてほしい-。
補助金不交付は、在日は権利を損なわれても構わない存在だと公言したに等しい。
市長は施政方針演説で「川崎を日本一幸せのあふれるまち、『最幸(さいこう)のまち』

にする」とうたい、 シンボルの一つに「子どもたちの笑顔」を挙げた。
そのビジョンの空疎さを在日へのまなざしが証明している。

http://news.kanaloco.jp/editorial/article/1312110001/





川崎市が打ち出した朝鮮初級学校への補助打ち切りは、
子どもを通わせる在日コリアンに衝撃を与えた。多文化共生を信じてきた同校OBの保

護者たちが、残念に思う胸の内を明かしてくれた。
韓国籍で在日三世の会社員石昌鎮(ソクチャンジン)さん(40)は
「新市長は無所属で政府の影響をそうは受けない、と少なからず期待していた」と、
「市民市長」の決断に驚く。
次男(11)は六年生。「隣の日本の子と遊んで育った。見た目だって変わらない。
同じ生活環境だから感覚も変わらない。(福田市長が)学校を見に来てくれると聞いて

いたのに」 と落胆の思いが言葉ににじんだ。
補助打ち切りは生活を直撃する。
建築業李正行(イゾンヘン)さん(41)は、六年生の長男(12)、五年生の次男(11)を

通わせる。
合わせて月一万二千円の負担増で、月三万円になる授業料に「今でもギリギリなの

に」と嘆く。
祖父母が戦前に渡ってきた朝鮮人と親に教わった。ハングル、文化を学ぶ民族教育は
「自分のルーツとつながる。自分の存在を理解できる」と、わが子も通わせている。
かつて大韓航空機爆破事件などを背景に女子生徒が襲われ、「子どもを迫害する人

を残念に思った記憶はある」が、それでも日本人を嫌いにはならなかった。
「私もだが、韓国籍の子が大多数。北朝鮮のために勉強させるわけがない。
なぜ北と結び付けて子どもたちを巻き込むのか」と訴える。 (山本哲正)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20131211/CK2013121102000128.html
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「人権を最上段に構えて」そこからの目線は、誰にも抗弁出来ないだろうと思い込む

書いている人の「カルト脳」は、今回の「粛清」については、相当な「人権蹂躙」な即決

ではなかったか・・・。擁護はしてもさてさて批判も出来ないのか、カルト脳にとって、

人権も一部の人の意見が最大限に尊重され、その他は無視する姿勢には、素晴らし

き「人権意識」を見る思いがする。






もともとは「自業自得」な行いによる「批判」だが、そこはカルト脳は以下のような批判

も無視するのだろうが、日本のメディアは、どんどん日本国民からの信頼は失って

これまた「自業自得」な斜陽産業化。


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国内世論が嫌韓・嫌北に転じたのはワールドカップと拉致問題の発覚。これ以前は、

ネットにおける嫌韓はそれほどでもなかった。ワールドカップにおける韓国人の行動

と国内メディアの報道に疑問を感じた日本人が、ネットを利用して真実を知っちゃった

のが原因。ネット登場以前ならマスコミの情報統制で隠蔽できたのかもしれないけど、

「違和感を感じたのは自分だけじゃないんだ」と安堵する人が多数出現した。mumur

は当時のハングル板でそういう新人さんを数え切れないほど見てきた。
先日の「朝日vs産経」の朝日記者も言ってたように「マスコミは韓国を批判してはなら

ない」という認識は、リベラル派のマスコミにおける共通認識としてあるものと思われる。

なんで「マスコミは韓国を批判してはならない」かというと、韓国を批判する(=事実を

報道する)と、嫌悪感を抱く日本人が多数出現してしまうから。これも、朝日新聞記者

がゲロしてた。
単純にマスコミの情報操作が無効になっちゃったから、実態を知って「韓国ってサイ

テー」と感じる人間が多数出現しただけの話。いいかげん学習しろ>東京新聞


http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50714190.html

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極自然な批判も、自らの足元も「灯台下暗し」で、見えないと「一丁前の言い分」も、

せせら笑われる「似非ぶり」となってきてしまい、流石にカルトは淘汰されても誰も

同情しない。それよりは「指差されて、笑われる存在」を甘んじて受けよだなぁ・・・。


で、カルトといえば「邪教集団」ものは、作りのチープさも手伝って、それを好む人達

には「絶賛受ける」存在として、後世まで「名の残る」ものとなってくる。

そんな中に「血まみれ農夫の侵略」も入ってくる。最低の映画として・・・。





http://www.youtube.com/watch?v=SI1D4_HcKCs

「血まみれ農夫の侵略」 七十二年未公開作


この映画の詐欺的商売方法は、ありもしない残虐場面をケースの裏表紙にして

ご大層な言葉を羅列したという大蔵貢バリの国内でのやり方。

もっとも、それを上回る映画内容だから、見た人はそんな表現も同時に「忘れてしまおう」

と後悔と共に唾棄されてしまう。

てな事を書くと、だったら何で見た?ってなおしかりを受けるが、そりゃ手に持ったときの

衝撃は「騙されやすさ」のなせる業となって、仕方ないでしょう「馬鹿なんだから」と開き

直るしかない。

邪教集団ドルイトが女王復活のため、血を集めて増幅させる云々で、選ばれた三人の

農夫が暗躍して「人を殺める」展開。

設定はご都合主義の典型で、アメリカの田舎が定番となり、登場人物も少なくて済む。

邪まな穢れが血を増幅させて女王を復活させる設定に、少しばかり変な感じ何より

せりふ回しもなんだかなぁだし、まして血を吸い取るパイプの長々とした映像は、はいはい

たくさん集まって「良かった」から、さっさと先に進めよと画面に悪態をつく。

で、完璧に飽きた頃、女王復活の儀式と解決策は精製された血清をぶっ掛けると、アラま

こらまと一瞬にして解決して、エンド・・・。

中でも「サイコ」の設定を参考にしたらしい場面のシーン、危機に陥るのが女でなく男とか

そのシャワー・シーンを見て興奮するのは、どう見たって「あっち方向の人々」しか存在し

ないだろうに・・・。これもカルトとして認定されるのに一部の人々の熱狂的支持されないと

ならないという使命感からなのだろうか・・・。

と、残念な時間の浪費だがねメディアの批判精神なら、見て文句付けが出来るカルト

ではあると・・・、もっともこんなこと書いても「こっちにはメデイア並みの書き物」でも、

びた一文入らないけど・・・。



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                          といったところで、またのお越しを・・・。