ことあるごとに中正・中立とは言い難い文章にしてみたり、映像にして「国民からの顰
蹙」を買うのが現状の日本のマスコミだが、それらのもたらす影響には心痛める。
何より「素直な性格」は、報道が間違っている疑いを抱かずにいる者も、また以下の
ような「幼児向け」のものに、記者の思い込みを書き込んでいては、歴史もあったもの
ではない。
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ニュースな歴史館:古代の北朝鮮は進んでいた
東京芸術大学のチームが2月、北朝鮮にある世界文化遺産「高句麗古墳群」の古墳
の壁画を独自のデジタル技術を使って、世界で初めて原寸大で復元したというニュ
ースがありました。
北朝鮮と言えば、「人工衛星」と言いながら実際は軍事ミサイルの実験を行うのでは
ないか……と疑われている怪しい国のイメージがあります。
しかし、こうした不可思議な国になったのは第二次世界大戦後のこと。しかも、日本
の戦前の支配も原因の一つでした。
紀元3?5世紀ごろに全盛を迎えた「高句麗王朝」のころは、日本よりもはるかに進ん
だ文明国家があり、仏教などの宗教、学問の中には当時、高句麗を経て中国から
伝えられたものもあります。
復元された壁画は、切手などでも知られる飛鳥時代の高松塚古墳(奈良県明日香
村)の美しい壁画とそっくりなのが分かるでしょう。
当時の日本は高句麗の美しい文明をそのまま、コピペしながら輸入し、やがて独自
の文化を生み出していったのです。【森忠彦(もりただひこ)】
▽毎日小学生新聞 2012年04月13日
http://mainichi.jp/feature/maisho/news/20120413kei00s00s015000c.html
大阪市東成区の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)大阪府本部前では13日午後、
在日本大韓民国民団の約70人が「国際社会の中止要求を無視した暴挙を断固糾
弾する」とシュプレヒコールをあげた。
朝鮮総連府本部は取材に「人工衛星の打ち上げはどの国にも国際法で保障された
権利だ。失敗は残念なこと。
在日への危害や差別助長がないよう冷静に対処してもらいたい」とした。府内の朝
鮮学校の校長によると、児童生徒への嫌がらせなどを防ごうと、今週から登下校
に教師が付き添ったり、保護者が送り迎えをしたりしているという。
東北アジアの人権をテーマに活動しているNPO法人「コリアNGOセンター」(大阪
市生野区)の事務局長で、在日3世の金光敏(キムクァンミン)さん(40)は「周辺
国に軍事挑発とうつる北朝鮮の行為は容認できない」とするが、「在日は、理性を
欠いた大騒ぎをする日本社会にもうんざりしている」と胸の内を明かす。
「国際協調の枠組みに入る方が国内安定につながると北朝鮮を説得し、孤立化を
防ぐ努力が必要だ」と話した。
朝日新聞
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201204140003.html
白昼に悪夢を見るような惨劇である。
花見客らでにぎわう京都市街の交差点に、軽ワゴン車が突っ込んだ。歩行中の男女
7人と、運転していた男が死亡した。
家族の話だと、男にはてんかんの持病があった。けいれんや体の硬直、突然意識を
失うといった発作を伴うことがある。
警察が、事故当時の発作の有無を調べている。故意の可能性も否定できないとし、
殺人容疑で自宅などを家宅捜索した。原因の解明を急いでほしい。
小学生6人が犠牲になった、昨年の栃木県鹿沼市の事故を思い出す。クレーン車を
運転中にてんかん発作を起こした男が、登校中の児童を次々とはねた。
男は、免許の取得・更新時に必要な病気の申告をしなかった。運転を控えるように、
という医師の指示を守らず、発作を抑える薬を飲み忘れていた。
京都の男も、免許更新時に病気の申告をしなかったとされる。病院から、運転をや
めるよう注意されていた。
男は、運転しなくても済む仕事への転職を考えていたという。事実なら、危険性を
認識していただけに、惨事を防げなかったことが悔やまれる。
てんかん発作が原因とみられる死亡事故は、ここ5年間で18件起きた。
免許の取得に病気の申告が義務付けられているのを知らなかったり、取れないこ
とを心配して隠したりする患者がいる。
社会的な偏見も見逃せない。正規の手続きで免許を取ったのに運転業務から外
された、病気を告げると退職を迫られたといった事例が、隠す理由になっている。
鹿沼市の事故の遺族が、同様の事故の厳罰化や、免許の不正取得を防ぐ制度
づくりを国に要請した。道交法の改正で規制強化を求める動きも出ている。
ただ、事故の原因になる病気はてんかんに限らない。3人が死亡した水戸市の
玉突き事故では、糖尿病患者が起訴された。
13人が死傷した京都市の多重衝突事故を引き起こしたとされるのは、認知症の
患者だった。
こうした事故の多くで共通するのは「運転しないように」という医師の助言に従わ
なかった点だ。
道交法の規則や義務、医師の指導を守る意識を浸透させること、家庭や職場で
しっかりサポートすることが、まず必要だろう。
車が人を殺傷する凶器になることをあらためて思い知らされた。ハンドルを握る
者それぞれが、肝に銘じておきたい。
信濃毎日新聞 04月14日(土)
http://www.shinmai.co.jp/news/20120414/KT120413ETI090007000.html
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少数意見を汲み上げるとかの視点も大切ではあるが、おおむね少数意見の中に
見え隠れするのは「印象操作」とかの歪曲のそれであり、事態の大きさに対する
不利になる者たちへの擁護が目立つ。
そして「沈黙する大多数」の思いは無視されるでは、「独善専攻」の独りよがりが
公共の報道機関の姿となってきてしまう。
そこには大多数の幸福と引き換えに一部の者の「利益」にしか視点が及ばない
偏狭過ぎる「思考法」が見え隠れしてしまう。
まして歴史の史実も書き換えて、「戦犯」としての日本をいつまでも引きずり、自
虐からの脱皮を阻止しようとする思惑も滲んでしまう。
たかが売文屋の「戯言」だが、感受性の強い人は、それらにも影響を受けて人格
形成にも影を落とす結果となる。
そこらへの選任を感じているマスコミがあるわけもなく、それがあれば上のような
どこかに責任所在をあやふやにする論調は書けないだろう。
正に日本人の金で、日本人の人格攻撃をするという「意味嫌われていい」種の
「やから」が暗躍する日本のマスコミの側面ではある。
で、何か事件が起こった時の「社会のせい」という簡単すぎる解釈にも安易過ぎる
意識が見え隠れするが、偏執的事件のそれは、これらマスコミの姿勢にもその一
因が潜んでいて、それが影響をもたらすとも考えられる。
まして感情のない人間が起こす犯罪には、攻撃的論調が人の「喜怒哀楽」を奪っ
ている側面を否定できない。
そんな人間が起こす事件には、人としての感情よりはマスコミの視線と同じ観察
という血の通わない冷徹な鉄面皮を見る思いがするのが、サイコ・ホラーとして
当時としてはショツキングなものであった「コレクター」もはいるだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=0oTFGi3ppnI
「コレクター」 六十五年公開作
蝶の収集が趣味である元銀行員の「大金」を手に入れたことによる「見て綺麗な物に
対する執着」は、美しい女性収集へと変化して、目に付けた女性を拉致して自宅の
地下室で「飼い始める」、ここらが収集家としての「偏り」が常人には理解出来ないから
物語の展開にどうしても被害者たる女性に肩入れするから、このサイコ野郎が「変態」
として認知されてしまう。
まして被害者のサマンサ・エッガーが飛び切り美貌のそれだけに主役の「変態度」に
人間的行動がない分恐ろしさも深まってしまう。
主人公にすれば「要望」されるものはすべて与えようとする。
それは自分のペットを喜ばせることが自分の喜びでもあるからであり、そこらに観客は
男女の間柄を想起させてしまうから「違和感」が生まれる・・・。
「コレクター」といえば、今では「オタク」という日本語がピタリと来るのだが、この収集癖
が高じて「女性収集」にエスカレートした物語は、言葉という意思疎通の出来ない動物
と言葉を使う人間もまた収集の対象とした相互間の「誤解」が、また「自由という行動様
式の束縛」に対して、見る人は窮屈な思いにとらわれるから、より女性の言動に感情移
入してしまう。だけに主人公の性格が理解出来ないとなる。
だからこの映画では自由と束縛の間にある「越えられない壁」わ感じて、おぞましい感じ
に見えてくるのだが、主人公側の視点からでは「愛でる観察」でそれは「「蝶」と同等のも
ので「何でも与える優しさ」は、ペットへの感情と同じで「自分の思い通り」でなく、逃げ出
そうとすれば全力で阻止するし、まして「ペットが死ねば、新たな収集を始める」という通
常の行動パターンを繰り返す・・・。
何しろこういった感情のない大人になった成長過程は描かれていないから精神疾患なの
か成長過程での「感情欠落」そして興味を示すもの以外には関心がなくなるのかは、わ
からず仕舞いで、映像には「おぞましいコレクター」としての姿しか描かれていずに、どち
らかいえば「拉致された可愛そうな女性」の解放がどうなるかが関心としてみている人に
映るから、ラストシーンはそれこそ主人公の悪趣味が継続され。どっと疲れるという人間
的なハッピーエンドを迎えないから、よりショックが大きいとなる・・・。
ところでこの主人公のテレンス・スタンプなのだが、どうしても「欲望」のデビット・ヘミング
スだったかと風貌が似ていて、あれっ主役はこっちかかいと「勘違い」をしていた。
まぁ、どちらの作品も当時としては「変態」が映画の主役としてセンセショナルなものに
ピッタリ来るのだが、こういったものの主人公の感情のない、あるいは接し方が分からない
残念さがどういった過程が出来上がったかを描いていれば、より深みのある映画にはなっ
たのではないか・・・。
当時と現在と比較しても、この主人公みたいな「感情表現の上手でない人」は増えている
だろう。
そこに上のようなマスコミの与える影響も排除出来ないのではと思えるのだが・・・。
「他人のせい」という「マスコミのせい」は二枚舌に翻弄される大衆の愚かさとも・・・。
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