正月五日で役目を終えた「派遣村」だが、主催者の予測は百人程度だったが
マスコミの強力な「宣伝報道」によって、人は膨れ上がり五百人程度の人々が
最終的に集まったらしく、そして裏に隠されていた「政府批判」も最終日には、
そういった活動家の煽動でデモも挙行されると、「やっぱりな・・・」な報道と、
胡散臭さを撒き散らした騒動だったが、報道インタビューを聞いていて高年齢の
人とかに「家族」もいるだろうと考えた時、この映画を思い出した。
笑いあり涙ありの日本的心情を巧く描いた「砂の上のロビンソン」である。
八十九年公開作
配給がアート・シアターギルトだからか、ビデオは販売されたが、それ以後は音沙汰なく
よーつべに投稿はなかった。
ストーリーは不動産会社の宣伝を兼ねたモデルルームに一年間住んで、宣伝マンを家族で
務めてくれたら、そのモデルルームを贈呈するという募集に応募した五人家族の有頂天から
崩壊、そしてありきたりだが「狭いながらも楽しい我が家」を見出すまでの笑いあり、苦悩あり
そして涙ありの物語。
狭い団地暮らしの大地康雄演じる父と、溌剌としてばりばり動く妻に二男一女の子供たち。
それも年齢が大学受験と中学二年、そして小学の娘と多感な年頃と来ている。
モデルルームに当たった当初は、子供達もそれぞれの部屋が与えられと有頂天で、モデラー
としてやってくる客に愛想が良かった。
それが毎日となってきて、プライベートのない生活に気付き始め、また幸運の家族に対しての
羨望・嫉妬から、徐々にこの理想的な家族は見えない敵に追い詰められて行き、幸運の父は
上司の嫌がらせの左遷に反発、有頂天の母も無言電話の嫌がらせにストレスを溜めていく。
そんな軋轢は夫婦喧嘩を派手にさせ、また子供達も学校での心無いいじめに胸をいため始め
る。モデラーに当たった当初の有頂天から「他人の迷惑」の酷さは、観客にとって笑いの壷。
だから出たしから途中までは、スクリーンに対して笑いが絶えないが、いよいよ夫婦喧嘩とか
子供たちへの陰湿ないじめとかから、観客もその立たされた立場に同情が沸き起こる。
で、家族の崩壊は次男の非行からはじまり、父の失踪となって、懸命に支えた母もモデラー
にギブアップして、元の団地へと逃避して・・・。
ただ多感な次男のストレスは、それだけでは癒されず、非行は「ホームレス襲撃」という弱い者
いじめで鬱憤晴らしの屈折したものへと変化していく・・・。
そして仲間と「ホームレス襲撃」を敢行した時、ホームレスの中に父を発見する。
このラストあたりになると、観客も身につまされてしまい、言葉を失う。
と、家族の崩壊とか、不特定多数に見られて生活するストレスの異常な沸き上がりとか、そして
なにより「絶対的に弱い者へのいじめ」が、一種のストレス発散となる襲撃に・・・。
と、示唆にとんだ笑いあり、最後にはほのぼのさせるホームドラマの映画だった。
そしてここで「派遣村」に話を移す時、ホームレスの存在を忘れていたはあれだけの人もわざわざ
日比谷公園に出向かないだろう。
この主人公は責任の重圧やストレスから逃避して、ホームレスの生活を選んでいる。
そして次男の言葉がなければ家に戻る決意が出来なかったろう。
そう背中を押してもらわなければ前に進めなくなる人、だからこそ重圧もなくそれこそ自己責任の
ホームレスに甘んじている。
ところがその「指示待ち族」と化している人々に、力強く演説できる人物が接近してくれば、その他
大勢の力強さが後押ししてくれるから、逃避からの遮断も出来てしまう。
要するに利用される側に回ったとしても、待遇が良ければそれでいい人と、利用することで利を得る
人とが、「悲惨」「不況」「差別」等ごたくを並べて、権利主張する・・・。
という側面が「派遣村」には、ありありとあって、重圧から逃れて無責任な大人に成り下がった男を
映画で救ったのは、なんとその無責任の仕業で屈折してしまった次男の父への思慕にあった。
映画は家族愛であったが、実際の派遣村では、うわべだけの偽善が蔓延し、責任という義務は放棄
されるが、国民であるの権利は存分にマスコミをはじめ、変な思惑の人々によって行使される。
まぁ、映画を見た時点が八十九年で、家族崩壊は深刻な世相だったが、今現在はそれに加えて「格差」
を喧伝し不安に追い込む勢力が存在し、報道を席巻・・・。
しかし、多感な少年の目に、父の姿が情けなくとも情愛が溢れる性格なら、無責任でも「許す」ことが
出来るが、さて一連の報道から、その多感な少年少女はどう感じ取るだろうか・・・。
マスコミの一元的批判も、そこのところを斟酌すれば、伝えていいモノでない権利と映るが・・・。
といったところで、またのお越しを・・・。