論理と文学 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

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このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

専門外のことなので今頃知ったのですが、3月に告示された新学習指導要領によって、2022年度から高校国語の選択科目に「論理国語」と「文学国語」ができるそうです。
 
論理国語とは、主として「思考力・判断力・表現力等」の創造的・論理的思考の側面の資質・能力を育成するため、実社会において必要となる、論理的に書いたり批判的に読んだりする力の育成を重視した科目です。また、文学国語とは、主として「思考力・判断力・表現力等」の感性・情緒の側面の力を育成するため、深く共感したり豊かに想像したりして、書いたり読んだりする力の育成を重視した科目です。
 
この話から先ず思ったことは、論理(的なもの)と文学(的なもの)は明確に区別できるのかという疑問です。上記の定義によれば、文学とは非論理的なものと認識しているようです。冗談ではありません。優れた文学作品の文章は論理的です。まるで文学作品が非論理的かつ散文的なポエムであるかのような偏見を抱いているならば、その人はハズレの文学作品ばかり読んできたか、読解力が著しく低いかのどちらかです。
 
また、論理国語の定義に「実社会において必要」とあるので、文学とは実社会において必要ないものと認識しているようでもあります。文学作品に触れることによって育まれる感性や情緒は、実社会を生きる上で必要ないということでしょうか。それは、どうなのでしょうね。こうした実学重視的な考え方は、生産性とやらで人間を判断する近年の政財界の風潮と軌を一にしているようで、人間社会を味気なく、つまらないものにするだけです。
 
私は独身で子供はおらず、教育関係者でもないので、特に深刻に考える問題ではありません。当事者となる高校生が、論理国語と文学国語のどちらを選ぶかは本人の自由です。ただ、論理国語だけを突き詰めた人は、将来仕事をAI(人工知能)に奪われる可能性が高そうです。感性や情緒を必要としない論理的思考ならば、人間よりAIの方が有能ですから。
 
参考:茂木健一郎オフィシャルブログ
 
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