【映画評】この首一万石 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

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このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

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武士になると願った人足の権三が武家の面子をかけた争いに巻き込まれる時代劇。1963年公開作品。監督は伊藤大輔で、出演は大川橋蔵、江利チエミ、堺駿二、平幹二朗、藤原釜足、東野英治郎、大坂志郎、水原弘。
 
大川橋蔵と江利チエミは当時アイドル的人気があったので、今で言えば、ジャニーズ(EXILE TRIBEでも可)とAKBの人気者が共演しているという感じでしょう(江利は歌手も兼業していましたから)。大川は、前年に大島渚監督の社会派時代劇『天草四郎時貞』に主演しており、脱アイドルを図っていたと思われます。
 
権三(大川)は長屋に住む浪人者(東野英治郎)の娘・ちづ(江利)と結婚したいのですが、武士でなければ許されないと言われ、武士になりたいと願います。人足は現代で言うところの派遣社員みたいなものなので、権三は「結婚したいから正社員になりたい!」と決意したわけです。
 
そこに一万石の小大名小此木藩から人足を雇いたいと注文があったので、権三は槍持ちとして旅に出ます。ところが足を負傷するアクシデントに遭い、一行を離れて一人旅になると、途中で愛するちづにそっくりな宿屋女郎・ちづる(江利・二役)に惚れてしまいます。出張先で片思いの相手にそっくりなキャバ嬢(風俗嬢でも可)に出会って浮かれるのと同じことです。
 
浮かれた権三が本陣に槍を置いて出て行った後、小此木藩の一行と大大名の渡会藩の一行が鉢合わせて、どちらが本陣を使うかで揉め事が始まります。小此木藩は見栄を張り、権三が置いていった槍を由緒ある槍だと嘘をつきます。しかし、渡会藩の賄賂工作により本陣を明け渡します。武士=役人であり、どの時代の役人も嘘に賄賂とやることは同じです。
 
ところが小此木藩の一行が槍を忘れたことで嘘がばれ、渡会藩は責任者に切腹を要求します。小此木藩は権三を武士に仕立て上げ、切腹させることで責任逃れしようとします。どの時代の役人も無責任体質は同じです。酒に酔っていたこともあり、武士になる自分を見てご機嫌だった権三ですが、真相を知ると必死で抵抗します。槍を手にするとガムシャラに振り回して小此木藩の武士たちを血祭りに上げていきます。このシーンでは血糊をたっぷり使っており、当時としてはグロめのスプラッター描写です。
 
傷つきながらも生き残った権三に向けて、御所内(平幹二朗)のクールな判断で代官所の鉄砲が何発も火を吹きます。これで暴徒は鎮圧され、宿場町の秩序は回復し、ラストは美しい国日本を象徴する富士山のカットです。いやあ、何かモヤモヤしたものが残ります。
 
東海道中、偽物の槍、終盤の大立ち回りと、本作は内田吐夢監督の『血槍富士』と共通点があります。本作の伊藤大輔監督は『血槍富士』に企画協力として参加していました。更に本作は伊藤監督が脚本を書いた、森一生監督の『槍おどり五十三次』のリメイクでもあります。制作年順に『槍おどり五十三次』(1946年)、『血槍富士』(1955年)、本作(1963年)となり、伊藤監督は自身の中にある構想を実現するため、最終的に自らメガホンを取ったと解することができます。
 
そして伊藤監督が本作によって表現したものは、『血槍富士』と同様、戦前戦後を通じて見てきた軍人や役人に対する批判であり、それは現代でも通用するのです。
 
★★★☆☆(2018年2月15日(木)テレビ鑑賞)
 
私がリアルタイムで観た大川橋蔵は、テレビドラマの『銭形平次』です。
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