第四課・第五課 子に教ふる道。 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

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このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

明治二十年発行の『普通讀本四編上』を紹介します。なお、読み易くするため、地の文は平仮名に統一し、文字化けを防ぐため、漢字は所々新字体に改めます。
 
   第四課 子に教ふる道。
 
孟軻は支那の賢人なり。幼かりし時、東隣の家にて猪を殺す者あり。軻之を覩て、何に爲んと欲するぞと問ふに、母戯れに、是れ将に汝に啖はしめんとするなりと答ふ。母既にして悔いて謂へらく、余過てり、若し之を啖はしめざるときは、是れ子に不信を教ふるなりと、乃ち猪肉を買ひて之を食わしめたり。初め軻の家は、墓所に近かりしかば、軻常に墓間葬送の戯れをのみ事とせり。母之を覩て謂へらく、此地は子を居くべき所にあらずと、乃ち去りて市の傍に遷るに、軻また、商蕒の物を衒賣するの状を爲して遊戯せり。母また、此處子を育つべからずとて、遂に家を學校の傍に遷し住みけるに、軻乃ち爼豆を陳子、揖譲進退の禮を擬して遊とせしかば、母始めて安堵し、此地眞に子を育つべきなりとて、遂に之に居を定めぬ。
 
   第五課 前課の續。
 
軻長じて後、他方に行き勤學せしが、猶ほ未熟なるに家に歸れり。其時母は機を織りてありけるが、軻の歸りたるを見て、汝の學問は幾何が進みたると問ふに、未だ長じたる所なしと答ふ。母聞きも敢へず、刀を持ち來りて、其機を中より斷ち切り、汝の中道にして學問の廃するは、猶ほ我が此機を斷つが如し、遂に倶に無用の物となるべしと諭しければ、軻大に恐れて再び志を勵まし、旦た學問して息まず、子思といひし人に師とし事へ、終に名儒とはなれり。今に至るまで孔孟といひて、孔子に次ぎて稱せらるヽものは、實に其賢母の教訓を守りしに由るなり。
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【私なりの現代語訳】
 
孟軻(孟子)は中国の賢人です。幼少時、東にある隣家で猪(豚)を屠殺する者がいました。孟軻はそれを見て、何のためにあんなことをしたがるのかと母に質問すると、母は冗談で、それはお前に食べさせたいからだと答えました。母は後になって後悔し、「私は間違っていた。もし猪の肉を食べさせなかったときは、我が子に人間不信を教えたことになる」と言い、猪の肉を買って食べさせました。当初孟軻の家は、墓地の近くにあったので、孟軻はいつも葬式の真似事ばかりして遊んでいました。母はそれを見て、「この土地は我が子がいるべき場所ではない」と言い、そこを去って市場の近くに引っ越すと、孟軻はまた商売のやり取りを真似して遊んでいました。母はまた「ここも我が子が育つべき場所ではない」と言って、遂に学校の近くに引っ越して住むと、孟軻は祭器を置き、礼儀作法を真似て遊んでいたので、母はやっと安堵し、「この土地で本当に我が子を育てるべきだ」と言って、遂に定住しました。
 
孟軻は成長した後、家を離れて学問に勤めていましたが、まだ未熟なのに家に帰って来ました。その時、母は機織りをしていましたが、孟軻が帰って来たのを見て、「お前の学問はどれくらい進んだか」と質問すると、孟軻は「まだ秀でたところがありません」と答えました。母はそれ以上話を聞くこともせず、刀を持って来て、織った布を途中で断ち切り、「お前が道半ばで学問を止めるのは、まるで私がこの布を断ったようなものだ。結局どちらも役立たずとなるだろう」と諭したので、孟軻はとても恐れ入って、再び目標に励み、朝夕学問をして休むことなく、子思という人に師事し、最終的に高名な儒学者となりました。現在に至るまで孔孟と言って、孔子の次に称えられるのは、実に彼の賢い母の教訓を守ったからです。
 
【私の一言】
 
前半は「孟母三遷」で、後半は「孟母断機」という孟子にまつわる故事を紹介しています。孟子の母の偉大さは分かるのですが、挿絵の母はデカくないですか?
 
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