作曲家 小林亜星 | じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

じゃんご ~許されざるおっさんの戯言ブログ~

このブログは、田舎で暮らすおっさんの独り言を日々書き綴っています。ブログタイトルの「じゃんご」とは秋田弁で「田舎」のことで、偶然にもマカロニウエスタンの主人公の名前でもあります。何となく付けてみました。お時間があれば、広い心で御覧になってください。

小林亜星が歌謡界にダメ出し「流行歌は滅びたね」

 
名作ドラマ「寺内貫太郎一家」のDVDが25日に発売される。同ドラマで頑固おやじを演じて俳優として存在感を示した作曲家小林亜星(83)は日刊スポーツのインタビューに応じ、当時の思い出を語った。現在の歌謡界に対する辛口のエールも送った。

数多くのアニメやCMの曲を手掛け、日本レコード大賞を受賞した都はるみ(68)の「北の宿から」の作曲でも知られる。その目に最近の歌謡界はどのように映っているのだろうか。

「流行歌の世界が全くダメ。紅白歌合戦も、みんな昔の歌を歌っている。おじいちゃんから孫まで知っている曲がない。演歌なんて何も新しいものがない。何かに似たような詞ばかり。流行歌は滅びたね。ポップスはいい曲はあるが、世の中、同じ曲ばかり街で流れているのはないよね」
 
その原因は何なのか。まずは「時代」をしっかりと見つめる目が必要という。
 
「作曲家、作詞家がいけない。現代を直視して現代を表現していない。演歌はひどい。何とか船とか、何とか道中とか、まだ作っている。殻の中でやっている感じ。昔は演歌はモダンなものだった。みんなが愛する曲を作るには、いろんな経験と音楽的成熟が必要で、そういう人がいなくなった。古賀政男先生たちはモダンだった。そもそも昔は『演歌』という言葉じゃなかった。『流行歌』と言ったもの」
 
最近は出演機会が減ったが、マルチタレントとしてテレビの仕事を多くこなしていた。テレビ界の現状をどう見ているのか。
 
「昔は仕事を終えるとみんなで同じ店で飯を食って飲んでいた。そうして家族になっていった。今は、あらゆる点で他人行儀でしゃくし定規。今は仕事でテレビ局に出入りするのさえ大変。作り手はもっと家族意識を持たないとね」
 
1974年(昭49)に放送されたTBS系ドラマ「寺内貫太郎一家」で頑固おやじを演じた。DVD化が決まり、今月25日に発売される。下町の石材店を舞台にしたホームドラマで平均視聴率は31・3%を記録。70年代を代表するテレビドラマだった。実は演技経験ゼロで参加した。
 
「もともと脚本の向田邦子さんの太ったお父さんがモデル。多忙なフランキー堺さんと高木ブーさんに断られ、他に俳優がいなかった。TBSのドラマ音楽の仕事をしていた私に話が来たんです」
 
当時は長髪でラッパズボン(ベルボトム)というファッションだったが、大改造された。
 
「久世光彦プロデューサーに理髪店に連れていかれ、丸刈りにされ、法被を着せられたら、向田さんが『これが貫太郎よ』となった。TBSは仕事のお得意さんだったので、断れなかった。生きた心地がしなかった。115キロの体重がストレスでもっと太った(笑い)」
 
演技に自信などなかったが、ちゃぶ台をひっくり返して、西城秀樹が演じた息子を殴りつけるなど頑固おやじを体現してみせた。
 
「今は昔と違って家族が一緒に夕飯も食べられない。一家だんらんがなくなった。今の方が貧しい。『貫太郎』の時代はみんな心が通じていた。今は忙しい、騒がしい競争の時代。寂しいね。教育も受験のため。我々の時代はしっかりと情操教育を受けた。今は情操より競争。みんな仲良く生きようという気が少しでもあればと思う」
 
最近の楽しみは、酒を飲みに出掛け、バカ話をすることだという。
 
「母は102歳まで生きた。俺はそんなに生きるの嫌だけど、死ぬわけにもいかない。運動が嫌いで最近は足元がふらつくね。病院は大好きで4、5軒行っている。『貫太郎』をやっている時から糖尿だけど悪くなっていない。入院は転んでケガした時くらい(笑い)」
 
元気で陽気。何よりも話すことが大好きな83歳だ。【中野由喜】
 
◆小林亜星(こばやし・あせい)1932年(昭7)8月11日、東京都生まれ。慶大卒。作曲家服部正氏に師事、音楽の道に。レナウン「ワンサカ娘」やブリヂストン「どこまでも行こう」などのCM曲や、「魔法使いサリーのうた」「ひみつのアッコちゃん」など人気アニメソングも多数。02年NHK連続テレビ小説「さくら」にも出演。169センチ。現在の体重は92キロ。
 
 
【ここから私の意見】
 
日本人なら誰もが耳にしたことがある数々の名曲を生み出した、小林亜星が日本歌謡界の現状を批判しています。亜星の友人である“永ちゃん”も同じような思いでしょう。矢沢永吉? いいえ、永六輔です。
 
亜星については、かつて文藝春秋社から発送されていた雑誌、「Title」2001年新年特大号に掲載された、吉田豪のコラム「格闘眼鏡」でパンク魂溢れる人物だと紹介されていました。一部引用しながら紹介します。
 
亜星は小学生にして江戸川乱歩にハマり、戦争中の疎開先でエロ描写を友だちに読んで聞かせたため、親が呼び出されたり、戦争後は、ジャズにかぶれて手作り楽器でバンドを始めたりしていました。当時の道徳基準では、かなり破天荒な少年です。
 
そんな型破りな青春時代を送りながら、慶応大学医学部にストレート合格し、卒業後は23歳で会社設立しました。しかし、半年で倒産し、2000万円の負債を抱えることになりました。ヤクザが借金の取立てに来ましたが、そこですっかり仲良くなって、一緒に別人の借金を取り立てに行くという豪胆ぶりを発揮しました。
 
やがて「しょうがない。作曲ぐらいしかできることはねぇな、人よりできることは」という理由で音楽界入りしますが、「なんだこれ、イモ臭え、日本はダメだな、俺が全部やり直してやる!」とばかりにシンプルな3コードの楽曲を発表していきました。
 
そして、30歳でヒッピー文化にカブレてしまったので、転載記事中にもあるとおり、あの体型で長髪にしていました。亜星は当時を次のように述懐しています。「まあ、カブレてみたらあんまり好きな方じゃなかったけどね。結局、ロマンティックがないから。ロックにしても、そういうものを否定するでしょ。最初はディープ・パープルとかにもカブレしてたんだけど、やっぱりクスリの影響が大きいのかな? 大人の文化が戦争起こしたり人殺ししたりしているんだから、俺らはそんな奴らの仲間に入りたくない。そこは正しいんだけど、クスリでもってなんとかしようとするっていうのは、俺も外国では吸ってみたこともあるけど、ちょっとドロップアウトの仕方がつまらないよね」
 
更にこんなことをブチ上げました。「オレは芸術やってんだって言って、全然世の中の知らないもの作っている奴。そういう奴は往々にして文部省の助成金を当てにしてたり、勲章貰いたがる体制的な奴が多いんですよ。そんなもの、糞みたいなもんだって(キッパリ)」「政府なんて関係ないもんな」
 
この発言に対して、インタビュアーの吉田が「亜星の亜はアナーキー=亜無亜危異の亜」と言うと、すかさず「アナーキーかもしれないですね。それは言える」とあっさり肯定しました。亜星の事務所の壁には、セックスピストルズのベーシスト、シド・ヴィシャスのポストカードが貼られていたそうです。
 
以上、15年前の記事からの紹介ですが、体制に反抗的な現在の姿勢と全くブレがないことが分かります。昭和の芸能人はコクが違いますね
 
ブログランキング・にほんブログ村に参加しています(よろしければクリックを!)