大日本帝国憲法は、明治天皇が天照大御神を始めとする皇祖皇宗の御神霊に向かって誓われて、始められた憲法。

だから、大日本帝国憲法は、まずはじめに告文(つげぶみ)という神々への誓いの文章がある。

これは憲法本文の上位に位置するものであり、明治天皇が、皇祖皇宗の神々に誓われたもの。

その内容は、この憲法が、古来より、ずっと伝えられてきたいわば不文の我が国のあり方を今の世に合わせて、条文として明らかにすることによって、国民(臣民)の子孫までそのあり方に従い、国民(臣民)が皆力をあわせて協力しあうように、永遠に守っていき、国の統治の基礎を強固にし、日本の国民(臣民)の喜びと幸せを増進するためにこれを制定するのであることを、神々に申し上げられる。

そしてこの憲法が、古来よりずっと伝わってきた精神を今の世に文字に表したものであり、神霊のお助けを得て、できたものであることを感謝され、明治天皇みずからが率先してこの憲法を履行され、遵守されることを誓われ、御神霊にそれを御覧になってくださいとお願いされるもの。

我国の天皇陛下の行われる政治は、古来より、常に祭りごとであり、神々の御心に沿い、その神意を実現するために行われるものであり、よって、大日本帝国憲法も、そういう厳かな敬虔な気持ちで作られ練られ、発布へと至ったもの。

これは明治のはじめの五箇条の御誓文の精神に基づくものであり、この五箇条の御誓文も神々への誓いであった。

昭和天皇がわが国の近代民主主義の始まりは五箇条の御誓文にあると言われたように、これが我が国固有の民主主義。

わが国の天皇は、歴代、常に私心を排して、国のため民のためにと常に正しいあり方を行なうことを真剣に考えられ、そのために神々に誠心誠意祈られ、誓われて物事を決められる。

その伝統の上に、大日本帝国憲法が作られ交付された。

この告文のあとに、国民に向けた憲法発布の勅語がある。

このように厳かな威厳に満ちた始まりの憲法を、日本国民は誇らしく、大切に守って来た。

終戦により、占領軍に日本弱体化のアメリカ製のにわか粗製憲法を押し付けられるまで、この神代の時代からの日本のあり方に従った我が国固有の憲法は、民主的で、しかも日本文化の真髄の馨る美しい憲法として、国家のあり方を決定させてきた。

大日本帝国憲法の告文を読みやすくするためにひらがなでの現代仮名遣いで書いて見た。

大日本帝国憲法  

告文(つげぶみ)

皇(すめら)朕(わ)れ謹み畏み

皇祖

皇宗の神霊に告げ白さく皇朕れ天壌無窮の宏謨(こうぼ=雄大な方針)に

循(したが)い惟神(かんながら)の宝祚(=皇位)を

承継し旧図(きゅうと=古くからの計画)を保持して

敢えて失墜すること無し

顧みるに世局の進運に膺(よ)り人文の発達に随(したが)い宜しく

皇祖

皇宗の遺訓を明徴にし典憲を成立し条章を昭示し

内は以て子孫の卒由(=したがうこと)する所と為し

外は以て臣民翼賛の道を広め永遠に遵行せしめ

益々国家の丕基(ひき=天子が国を統治するという大事業の基礎)を

鞏固にして八州民生の慶福を増進すべし

ここに皇室典範及び憲法を制定す

惟(おも)うに此れ皆

皇祖

皇宗の後裔(こうえい=子孫)に貽(のこ=遺)したまえる統治の

洪範(こうはん=模範となる大法)を

紹述(=前人の後を受け継いで述べ行なうこと)するに外ならず

而して朕が躬(みずから)に逮(およん)で[=私の時代になって]

時と倶(とも)に挙行することを得るは洵(まこと)に

皇祖

皇宗及び我が

皇考(天皇の亡父=孝明天皇)の威霊に


倚藉(いしゃ=頼ること)するに由らざるは無し

皇朕れ仰ぎて

皇祖

皇宗及び

皇考の神祐を祈り併せて朕が現在及び将来に臣民に率先し

此の憲章を履行して愆(あやま=踏み外れる)らざらむことを誓う

庶(こい)幾(ねがわ)くば

神霊此れを鑒(かんが)みたまえ[御覧ください]
人は平時が続くと、変化に対する反応が遅くなる。

とりわけ、本来、変化を好まない傾向がある日本人は、状況が変化しているのに平時のものの見方、考え方を変えられず、気付いた時には取り返しがつかないほど社会が荒廃していた、という事態に陥りがち。

明治維新は、日本人だからできた「無血革命」だと言われるが、実際は相当な犠牲を払っている。

戊辰戦争では何万という人命が失われたし、三百年続いた徳川の世が全否定されたことで、社会では大きな悲劇もたくさん生まれ、物理的、精神的な文化的遺産もゴミのように捨て去られた。

明治維新は起こるべくして起こった社会変革ではあったが、黒船来航以降の変化、諸藩の動きや考え方の変化に幕府がもっと早く柔軟に対応していたら、犠牲は最小限に抑えられ、もっとスムーズな社会変革が可能だったのではないかと思える。

結果的に、急激に社会が変わることになり、その中で日本本来の良さも失われてた。

ほんの一例だが、アメリカのボストン美術館には日本の優れた仏教芸術が数多く展示されている。

維新期の「廃仏毀釈運動」で日本人が仏教を排斥したために、膨大な仏教芸術が海外に流出した。

それまで大切に育ててきた文化まで無造作に捨て去ってしまったから、やはり明治維新は行き過ぎた社会変革だったと言わざるを得ない。

教育にしても同様のことが言える。

明治天皇は非常に優れたバランス感覚の持ち主で、西洋の技術を取り入れることを指示する一方、日本人本来の精神性はくれぐれも失わないように、とつねづね言っていた。

だが為政者たちは「文明開化」をスローガンにして、日本の良さを顧みず、何でも西洋化しようとした。

明治天皇はたびたび「詔書」を出し、日本人には日本人にふさわしい教育をすべしと繰り返し自ら主張されたが、当時の文部省は素知らぬ顔。

そんな江戸時代の封建性の名残のような教育など日本の近代化の邪魔になるだけだ、というのが彼らの考え方。

しかし、その一方で、人々のモラルは低下し、明治初期の日本では社会の風紀が大きく乱れた。

例えば小学生の子供が休み時間にたばこを吸っている。

お巡りさんが大道で平気で博打をする。

勤め人が昼間から酒を持って歩いている。

男女の性道徳も前の時代に比べ著しく乱れ始めた。

明治十年から二十年ごろ、日本の社会はそこまで荒廃していた。

そのころ来日した外国人は日本への失望感をあらわにしている。

『インド人も怠惰だったけれど、日本人はそれに輪をかけてひどい』と書き残しているイギリス人もいる。

当時のイギリスは産業革命の最中で、国民全体が大変勤勉だった頃ですから、なおさら日本人の堕落ぶりがひどく映った。

こんな状態が続き、明治二十年ごろになると、さすがに国政を担う人々も方向性を誤っていることに気付き始めた。

急速に西洋化が進む一方で社会のあまりの荒廃に危機感を募らせた人々、特に上からは明治天皇から一部の政治家や、当時「国粋派」と呼ばれて時に危険視されていた学者たちが立ち上がった。

そうした努力の一環として打ち出されたのが「教育勅語」(明治二十三年)

しかし、こうした「上からの動き」と併せて地方から、そして庶民の間からも自発的な教育やモラルの改善運動が起こってきた。

そして日本人全体が社会の近代化の大切さを踏まえつつも、自分たちがかつて持っていた文化に対する誇りを取り戻し始めた。

ここから日本は立ち直るが、幕末から明治までに失われたものの大きさを考えると、変化への対応の遅さがつくづく悔やまれる。

好むと好まざるとに関わらず時代は変化していく。

そうした変化には合わせてゆかねばならない。

その上で「変化にはコストがかかる」という視点から、そのバランス・シートを考えてみる必要がある。

この時、日本人にとって特に大切なのは決して情緒的に反応せず、あくまで冷静かつ合理的な姿勢に徹すること。

「それ行けドンドン」や「石橋を叩いても渡らない」というのは、いずれも堕落、精神の劣化。

教育というのは大きいと思う。

戦後、日本の教育は荒廃し続けていると言う。

特にモラルや道徳、日本のよき精神を教えないことが、日本社会に大きな影響を与えていることは明らか。

日本人に「個人主義」や「自由」、「権利」などというものはあわないものだと思っている。

日本人の優れた面はもちろん個人の力というのもあるが、大きく発揮されるのは集団行動にあると思う。

その根幹は日本人の規律の正しさ、自分より他人をいたわり、互いに思いやり、そしてともに行動する時に大きな力となる。

そこには自分勝手な自由や権利の主張などあり得ない。

西洋・中国・朝鮮人と日本人は違う。

グローバルという言葉に釣られて何でも国際基準にする必要などない。

なぜなら、それ以上に日本人と日本という国は優れた、素晴らしいものを本来は持っている…

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大東亜戦争開戦2日目の12月10日、イギリスの東洋艦隊の旗艦(司令官搭乗)プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスがとともに撃沈した。

輝かしい日本海軍の勝利であった。

プリンス・オブ・ウェールズとは大英帝国の次期国王である皇太子の称号。

これを早々に日本軍がやっつけてしまった。

この衝撃はチャーチルは勿論のこと、全世界、特に東洋で支配されていたアジアの国々には大きな衝撃となった。

残る3隻のイギリス駆逐艦は死に物狂いで射撃を続けている。

しかし、日本軍はこの3隻の駆逐艦を見逃し、攻撃を途中でやめ、溺れている英国兵士の救出に当たった。

これにより、約7割を救助した。

翌日、日本軍の攻撃隊を指揮した壱岐春記大尉は海戦のあった上空を飛んで行った。

そして、空から紅色の花束を二つ海に投げた。

ひとつは

「戦死した部下の霊よ、安らかなれ」

もうひとつは

「戦に敗れた英国軍人の霊よ、安らかなれ」

と、念じた。

これぞ日本武士道の精神。

このマレー沖海戦は武勇でも道義でも輝かしい日本軍の世界へ誇れる戦いぶりであった。

日本人の伝統的な考え方、それは日本精神である。

その考えは風土、社会、とりわけ身近に生活を共にする人たちの考え方に影響される。

その中心的なものに“武士道”がある。

武士の職分は“奉公”であり、侍奉公と言った。

また、武士に限らず徒弟や丁稚も“奉公”と言った。

公に奉仕すること社会、国に尽くすこと、みんなのために働いて責任を分担する。

武士と同じ心構えでいようということの表れである。

武士は帯刀して武士の体面を保つ。

刀剣は武士の魂と言われる。

刀がなければ戦えないから…

刀は武士のシンボルであるが、それは人を斬るためのものではなかった。

人に刀を振り回させないためのものであった。

剣は強い人ほど抜かないもの…

心の修養で敵を威圧させ、心服させる。

それが真の勇者である。

やむを得ない時以外に人を斬っては”刀が汚れる”と言った。

昔は刀を持たせてもらえるのは危険を知り、それに対処できると認められることを意味した。

刀を持てるのは一人前ということ。

かつて、中学では剣道・柔道・竹刀・長刀、小学生は騎馬戦や棒倒しをやり、木刀を持てる。

撃剣を習える。

生徒たちは勇み立った。

しかし、まずやるのは板の間に正座をしての講義。

武士の心得、弱気を助け強きを挫く、武士の情け、不時の心得、そして偉人の話を聞かされる。

そして木刀を持つ前に刀を抜くなと徹底して教えられた。

年長者を尊び、修身と道徳を熱心に学び、唱歌の時間にも修身を同時に学んだ。

日本人は平素から貧窮に甘んじながらそれを恥とせず、不満を持たず、不自由を忍び、謙虚で素直で愚直なまでに従順であった。

そして日本人は、天皇陛下を敬い、国を愛し、誇りと喜びに支えられて、情熱の意欲に満ちて国家に尽くした。

世界を驚かせた日清・日露の勝利も、驚異的な発展も、ひとえに修身と武士道に支えられた若者たちが、愛国心に勇み立って邁進したお陰…

護国の英霊は潔く命を捧げた。

残された者たちはしっかり国を護らねば、先に散った人たちの死は無駄になる。

「靖国の英霊たちよありがとう」

「お陰で我々は今、平和に過ごせています」

「しかし、一旦危難が迫れば我々も断じて国を護ります」

「立派に奉公してみせますからご安心ください」

こういうことを言える日本人でありたい…