★★★★☆
日本人がヘビー級タイトルマッチに挑戦なんて、藤本京太郎に聞かせてあげたい、という話。
サイコパスが出てこない伊坂作品
「あとがき」によると、伊坂幸太郎は自分の執筆スタイルを「悲観的な話の中で、楽観的な話をしたい」というスンタスであることを述べていて、なるほどと思った。確かに、伊坂作品を端的に表すならばほとんどの作品がそのような表現となる。
しかし本著はそうではなく、日常の中の出来事を主に綴る内容となっている。だから、ヤな奴などは出てくるのだが(ファミレスで騒いでた客とか、無賃駐輪するおっさんとか、学校カーストの頂点に立っていた女とか)、伊坂作品でよく出てくる笑っちゃうほど悪い奴というのは登場しない。そういう意味では、とても平和で安心して読める作品であるといえる。
もちろん日常の中にも登場人物本人にとってはおおごととなる出来事はたくさんあって、登場人物達は右往左往するわけなので、いつもの伊坂節がとても面白い。ああ、伊坂幸太郎作品だな〜と私のようなファンはそれだけで楽しく読める仕様である。
が。
上記の「悲観的な〜」という伊坂幸太郎の作品スタイルを言い換えるならば、「残虐非道なサイコパスに最後には鉄槌を下されて、溜飲が下がる話」ともいえる。そして本著は、それがないということになる。
ということで、なんだかちょっと物足りなさを感じた次第である。
読んでいるだけではらわたが煮えくり返りそうな悪い奴がいて、長編小説の場合300ページくらいをかけてそいつの悪虐非道な振る舞い見せられた上で、最後の数ページでそいつに鉄槌が下るのが好きだった——という私が伊坂ファンである由縁の一つに自分自身が改めて気づくきっかけとなった一冊であるといえる。ありがとう(何が?)
文学YouTuberによる書評
最近私がハマっている文学YouTuberベルという「書評動画」をあげる人がいるのだが、その方の書評に本著がある。
↓ちなみに私と同じく伊坂幸太郎ファンらしく、私があと10歳若かったら「私のこと好きなんじゃないか……?」と思っていたところでした。
本作のあとがきで作者自身が明かしているのだが、この短編連作の第1話は、斉藤和義に作詞を依頼された際に「作詞はできないが、小説なら書く」という形で依頼を引き受けてできた物語であるらしい。その辺のことに詳しく言及されていたり、「アイネクライネナハトムジーク」という曲がどういう曲なのかも教えてくれるので、いろいろと知識を補完できる。
ただ、この動画は数年前のもので、最近の書評動画と比べるとキャラに迷いがあり洗練されておらず、最近の書評動画と比べると動画自体はイマイチである(ただ若さを考えると信じられないくらいのプレゼン力だと思うが。たぶん女子高生時代のものだし)。
この書評を聞いて面白そうと思って本著を読むと、期待しすぎてガッカリするかもしれないという懸念が個人的にはある。いわゆる「期待値のコントロール」というやつである。
オススメって、いろいろと難しいしい要素を含んでるよね〜
各話をざっと
アイネクライネ
表題作である。
斉藤和義はラブソングを歌う歌手なので、伊坂幸太郎には珍しい(本人も述べている)恋愛を主軸とした話である。ただ、そこまで恋愛色を出さないのもまた伊坂幸太郎である。というか、私はあとがきを読むまでこれが恋愛をテーマにした話だと気がつかなかったというね。。。こんなことだからいくつになっても女心がわからないのである。
「情報や統計は見せ方により、どんなものの根拠にも使える」
という一文は、まさにその通りだなと激しく同意する一方で、「過去になんかあったんか?」と心配してしまうほどに強烈な何かを感じる。昔騙されたのか、伊坂よ?(誰やねん、お前)
同じような話で、やる理由もやらない理由もいくらでも作り出すのが社会という場であるなと思うことがある。
例えば「時間がない」ときに
「時間がないから、もうやる」
と、
「時間がないから、もうやらない」
は両方成立する場面がよくある。これは担当者のやる気とか仕事への姿勢とかで簡単に左右され、要は本人がやりたいかやりたくないかだけだったりすることが多々ある。時間のあるなしは関係なく、ただの後付け理由である。ようはめんどくさいかどうかである。もちろんこれは、無茶な要求を突っぱねるときにも使うんだけどね! ただ、相手が好きな人だったら(変な意味ではなく)、まあ時間とか関係なしに頑張るよね、実際。
ライトヘビー
上の第1話でも登場した「日本人初の世界ヘビー級王座挑戦者」のテレビ中継を主軸とした話。美容院に来たこの話の主人公と女性美容師との会話が中心となって進む。
私も毎回同じ美容院、同じ美容師に切ってもらうのだが(注:私おっさん)、美容師と二人でプライベートで買い物に行くなんてことありえるんですかね? 歳が近い女性同士ならある話なんですか? おっさんには夢の世界よりも遠い話なので想像すらできませぬ。特に私、美容院ではなんなら一言も話したくないタチなので、「二人でピザ食う」なんて「トランプ大統領と明日会う」くらいありえない話である。
美容師の策略で主人公に自分の弟と電話をさせ、二人は電話のみでなんとなく関係を深めていく。で、弟は「ヘビー級日本人挑戦者」がこの試合に勝ったら告白しようと思っていると姉はバラし……みたいな話。
ドクメンタ
免許状更新で出会った子連れの女性と、更新のたびに出会う話。
子供にまつわるエピソードを読むと、伊坂幸太郎が自分の子供をもったときの実感がよくわかる。「自分の子をもつと、他人の子も可愛く見える」とか。
ルックスライク
「歯車はやっぱり退屈そうだ」
という主人公の言葉。自身の父親に似ていると言われることにコンプレックスを抱いている高校生の主人公の話。「歯車」は彼の父親の姿を表した言葉で、それを聞いた母親は「歯車を舐めんなよ」と主人公をつっぱねる。「会社で働くのがどれだけ大変なことか分からないから言えるんだよ」「歯車みたいな仕事をしていても、人生は幸せだったりするし」と諭す。
私は彼の母親の意見に激しく賛同する。まったくその通りである。
しかし、二人とも一点だけ、致命的なまでに勘違いをしているところがある。
多くの人間は、「歯車」ではなく、「釘」である——ということを。
「歯車」というのは、一つでもかけたらもう正常には動かない絶妙なバランスで互いを回し合い、製品(会社)を機能させている。つまり、どの歯車も、一つとして欠けることが許されない、なくてはならない存在なのである。
しかし、私のような社畜宇宙代表みたいな典型定期な会社員は、「一つとして欠けることが許されない、なくてはならない存在」ではない。私でなくてもよい仕事を任せられ、私でなくても得られたであろう結果を会社にもたらす。そして何より、私一人が欠けたところで、会社という大きな器は何の問題もなく動き続けるであろう。私の周辺にいる「釘」の負荷が多少増すことがあるだけで。
ごく平均的能力社畜代表の私は、「歯車」などという立派なものになれようはずもなく、ただただ時折抜け落ちる自分の周辺の「釘」が担ってきた負荷を引き受けたり、他の「釘」たちの負荷が少しでも和らぐように気を遣ったりすることだけが、自分が会社という器に貢献していることを実感できる数少ないできごとである。
彼の父親がもし本当に「歯車」であるならば、それこそ「舐めんなよ」である。一つも欠けることが許されない「歯車」という存在になれたのならば、それは誇りにすべきことなのである。
メイクアップ
学校カーストの頂点に立っていた女と、仕事で再開するという話。
かつてはその女にいじめとは呼べなまでの立派な「いじめ」に遭っていた主人公が、仕事上のクライアント候補として再びその女と再開し、「仕事を依頼するかどうか決める側」というかつてとは逆転したいわば上の立場から接することになり、複雑な感情と立場に戸惑う。高校生の頃とはまったく容姿が異なる主人公に相手はまったく気がつかず、もやもやした思いのまま過ごしているとまったくのプライベートで偶然鉢合わせることになり——といった感じで話が進むのだが、とにもかくにも、私は学校カーストをテーマにした話を読むとどうしても胸くそが悪くなる。学校カーストで頂点に立ち、散々やりたい放題して「虐げられた者の迷惑」=「学校生活の楽しさ」という青春を謳歌した者が、その代償をその後の人生で払うわけではないことをよく知っているからである。
そうやって青春を謳歌した者が、その後の人生もちゃんと幸せになっていることの方が圧倒的に多い。むしろ、虐げられた者はその頃の傷を今でも背負って生きている分、重荷がある。そういう話でもある。
プチ番長の定番は「自分が審判役になること」であるとは、なかなか言い得て妙であった。
ナハトムジーク
カーテンコールのように、各話の今までの登場人物がほぼ全員出演する話。
まるで週刊少年ジャンプに長期連載された作品の最終回のようである。ただ、私は一気読みではなく結構ぶつ切りに一冊を読んだため、あんまり覚えてない人物が結構いて、「?」がいっぱいであった。なんかこの異様に説明口調のセリフはきっと前の話と関連があるんだろうな〜と思いつつも後ろを振り返ることなく読み進め、そして終わった。
人は、過去を思い出にしなければ生きていけない生き物なのである(都合の良い言い方)。
↓伊坂作品の中では「まあまあ」といった感じですかね〜。私はファンだからなんだって良いんだけどね!
今まで観た映画