「奇書の世界史」 三崎律日 | 映画物語(栄華物語のもじり)

映画物語(栄華物語のもじり)

「映画好き」ではない人間が綴る映画ブログ。
読書の方が好き。
満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

★★★★☆

 モノの見方、という話。

 

動画発の書籍化 〜ブログ発の書籍化、の発展形⁉︎〜

 私はYouTubeなんぞまったく見ない人間であったのが2年前までの話。今では、抗い続けた時代の潮流に残念ながら身も心も飲み込まれ、1秒も動画鑑賞をしない日などほとんどなくなってしまった。完全にテレビは観なくなり、代わりにYouTubeをダラダラと流す最近よく聞く生活となってしまった。基本的には「時間を無駄にしてるな〜こんな時間あるなら本を読む方が良いのにな〜」と思いながらずっと観ているのだが(ザ・ダメ人間)、中には知的好奇心がそそられるからこそ鑑賞している動画というのも、わずかばかりに存在する(もちろん知的好奇心に訴えかけるような動画というのは数多く存在するのだろうが、私は動画にそれをあまり求めていないので観ていないだけだという話で、「動画<本」とは全然思ってないっすよ!)。それが本著の元となった動画「世界の奇書をゆっくり解説」シリーズである。

 

 元々はニコニコ動画発であったらしい。それをYouTubeにもアップをし始め、知名度が飛躍的に上がったようである。私が知ったのもYouTubeである(というかニコニコ動画自体利用したことがない)。動画主のチャンネル登録数自体は実はそれほど多いわけではなく、YouTubeでは1万人もいってなかったりする(2019年9月現在)。それにしも関わらず書籍出版に至ったのだから、内容が本物である証であるのかもしれない。

 

 今までは「ブロガーとして人気を得る→書籍化」という流れが数多く生まれてきたが、これからは「YouTuberとして人気→書籍化」も一つの道としてなり得るのだろうか? HIKAKINも実は本を出してるし。

 

 個人的な考えとしては、どちらが良いという意味ではなく「動画視聴=受動的」「読書=能動的」と思っているので、需要が微妙に合わないのではないかな〜と考えている。そのため、あまり流行る形ではないと予想していて、本著が生まれ得たのも「本」という共通のテーマでたまたま合致したからではないかと考える。「奇書」をテーマとした動画を見る視聴者は「そりゃ本が好きだろう」という需要予測があるからこそ、書籍化という行為がぴったりとハマるのである。

 

 しかしながら当然湧き上がる疑問として、「動画と同じ内容のものを改めて本で読んで何か意味があるのか」というのがある。私の個人的な答えとしては、「本が好き」「読書が好き」という人にとってはとても意味がある、ということになる。 

 

 実際、私は投稿主の動画を全て視聴していて、その上で本著を読んだのだが、圧倒的に書籍の方が理解しやすかった。これはあるいは動画制作に時間をかけて丁寧に作り込んだ投稿主にとっては必ずしも喜ばしい感想ではないかもしれない。だが、正直な感想でもある。これは「ゆっくり解説」という動画ジャンルそのものに共通することだといえるが、そもそも「動画だからといって、わかりやすいわけではない」というそもそも論がある。動画であることは、ポチッと画面をタッチすれば内容が自動的に流れていくという始めやすさがあるので「内容に触れやすい」という利点がかなり大きくあるのだが、だからといって本で読むよりわかりやすいかといえば、必ずしもそうではなかったりする。特に「ゆっくり解説」では、示された資料を見ているうちに聞き取りづらい機械音声がどんどん先に進んでしまい、結局巻き戻してもう一回聴き直すということがよくある。

 

 これは、流行りの「オーディオブック」の問題とかなり共通する。単純な話、本は「聞く」のと「読む」のとどちらが理解しやすいのか、という話となる。また、本を「聞きたい」人は受動的に内容を享受したいと考えており、「読みたい」人は能動的に内容を享受したいと考えていると考えられる。くどいようだがこれはどちらが優れているかという問題ではなく、好みの問題である。しかしながら、能動的である分、恐らく「読む」方が内容理解はしやすいだろう。なぜなら、読書では、基本的には自分が理解するまで先に進まないからだ。しかし「聞く」「見る」は、視聴者の理解度に構わず流れるように先へと進んでいく。それが「疲れない」「気楽」という利点を生むポイントでもあるのだが、きちんと理解しようと思って臨むのなら、あるいは読書よりも強靭な集中力が必要となる要素を含んでいるといえる。

 

 これが、例えば見ている(聴いている)者との対話型のプレゼンテーション等であるならばもっと違うのかもしれないが、相手の呼吸を見たり場を包む雰囲気を感じて補足説明をしたりすることができない「動画」というジャンルでは、見ている(聴いている)者がボーッとしていてもどんどん進んでいくので、いつの間にか「そよ風の音」となってしまっていることもありえるのである。バラエティ色の強い動画と違って、解説動画はぼーっと見ているといつの間にか置いてけぼりになってしまうのである。

 

 特に「ゆっくり」で動画が作成されていると、身振り手振りといったものもないので、かなり能動的に画面に注視しなければならない。受動的メディアでありながら能動的な態度を求められることもまた、齟齬を産みやすくなる。HIKAKINの動画を見るときとは心構えが異なるといえる。

 

 なんかくどくどと説明してしまったが、要するに「本で読んでみて、ようやく全容が頭に入った」ということが言いたいのである。動画だと、面白かったなーとは思うのだが、いまいち理解が追いつかない感じであった。しかし本だと、思い出したい箇所をすぐに見直せるのもあり、ようやく人に説明できるくらい内容が頭には入った、という感じである。

 

 ただやはり、動画の方が圧倒的に敷居は低く気楽に見始められるという点は大きな利点であるので、「動画で解説を見て全体像を把握」→「書籍で復習して細部を確認」というのが、実はもっとも効率的な勉強方法なのかもしれない——って、勉強方法の話になってるし⁉︎

 

 ということで、「動画発の書籍化」という現象はブームになるのか? という問題に対して、結論としては、「ブームにはならないけれど、動画連動型の書籍販売はポツポツあるかもね」というのが私の考えである。昔から存在する「eラーニング」の楽しい版みたいな感じかね〜。「eラーニング」と最大に異なる点は、動画が面白くなければ書籍が売れないので、「eラーニング」での「わざとやってるの?」というくらいつまらない動画ではない、というところである。

 

見方が変わると、世界が反対になる

 本著の作者は「三崎律日」とあるが、動画視聴者からしたら「誰ソレ?」である。動画の投稿者名は「Alt +F4」という一目でWindowsユーザーであることがわかるもので(Macユーザがウケを狙って付けたのかもしれないが)、超個人的には親近感が湧きまくるものとなっている。私、Macユーザだけど。いや、私のかつての職場に異様にはびこっていたApple崇拝の波に頑なに反旗を翻していたので……(Macユーザなのに)。会社の事務作業で使う程度のことなんてブラウザ開いてなんかするだけなんだからWindowsだろうがMacだろうが変わんねーだろ(画像や動画の編集含む)、とチャンスがあれば声を大にして朝打ちや終礼で言っていたのは若気の至りである。何が気に入らなかったって、私の職場のApple信者は、Windowsを小馬鹿にする形でMac崇拝、iPad・iPhone崇拝をしていたので(自覚ないだろうけど)、なんだかなーと思っていたのである。当然Androidスマホも否定していた。そういう方達はほぼ100%「MacやiPhoneと同じ価格帯の機種を購入したことがない」という矛盾を抱えていた。低価格帯のWindowsパソコンやAndroidスマホを購入して「動作が遅い」とか「すぐフリーズする」とかいった不満を述べるのだが、そりゃそうだろうという話である。だって安物なんだから。

 

 なぜこんな「Mac vs Windows」などという使い古されたような話をくどくどしたのかというと、本著の中に描かれている「奇書」をめぐるエピソードの多くが、「奇書」たらしめている原因は結局は見方によるものが大きいということであり、その点が重要なことであるとして筆者が再三にわたって述べているため、それを表す一例としたかったからである。Macを使っている人は、基本的にはApple製品が好きであることが多い。その立場で見ると、Windowsの良くない点がたくさん見えてしまうということになる。ただ実際は粗悪品の悪いところばかりを見ているに過ぎないことが多い。だがこれも、Apple好きから言わせれば「粗悪品があること自体が悪い」という理屈になるのかもしれない。ただそれは、値段の高い端末を購入できる者が述べる驕りに繋がりかねない話でもある。安い端末が存在するのは、それを必要としている者がいるという証左でもある(要するに、売れる)。

 Windowsユーザからしたら、Macは「値段の割には、スペックがいまいち」という費用対効果の面で問題があるという意見もあるだろう。ただそれに対しても、Macユーザからしたらいろいろと言いたいことはあるだろう(パソコンの数字上のスペックにこだわるようなコアユーザはあんまりいない印象だし)。それに対して、Windowsユーザからしてみたら、またいろいろと言いたいことはあるのである。

 

 といことで、どの立場に立つかで、「モノの見方」というのは変わるわけである。本著の中に出てくる「奇書」とされるものは、「世の中の見方が変わったら『奇書』となった(現代から見ると変)」か、「『奇書』とされていたものが、世の中が正しいことを認識したら『奇書』ではなくなった(現代から見るとこちらの方が正しい)」かのどちらかである場合が多い。

 

 本著は、そうした「立場による見方の変化」というものを考えさせてくれる構成ともなっていて、そこに筆者の意図があるようにも感じた。

 

で、内容をサラッと

「魔女に与える鉄槌」

 魔女狩りのやり方、みたいな本である。
 これこそ「見方が変わると〜」というやつで、この本が当時ベストセラーとなったのは、結局「魔女」という概念が世の中に「常識」として存在したからである。巻末の「解説」にもあるが、「避けることができない不幸な偶然」というものが存在すると認められるのは、かなり現代的な話なのである。それ以前の世界では、呪いや魔術が存在すると考えるのが当たり前のことで、その世界では、何か不幸なことが起これば「何かのせい」「誰かのせい」と考えることの方がむしろ自然であり、当然であったのである。
 「魔女」と、女性に固着した偏執的な部分は「魔女に与える鉄槌」を著した者の個人的な狂気であるのだが、これが世の中に受け入れられた経緯は決して狂ったものではなかった。それが恐ろしい。現代にだって、もしかしたらそういった問題はあるのかもしれないのである。
 皆が当然だと思って忌避しているものが、実は何の謂れもなく避けられ、忌み嫌われているだけかもしれないことが。。。ゴキちゃんとか(謂れありそう。まずあの形状が無理っす!)
 

「台湾誌」

 台湾が未開の地であった時代に、著者が自らを「台湾人」と名乗り著した台湾に関する偽書。誰も検証できないことを良いことに全てを妄想で書き上げながらも、多くの人間をあっさりと騙したある意味では完璧なフィクションで、現代人から見てもちょっと読んでみたい一冊である。台湾の人が読んだら怒るだろうけど。
 世の中には自らを「宇宙人」と名乗り、いろいろと「別の星」のことを語る人がいるわけだけど、あんな感じですかね? 全然誰も信じてないけど。岡○斗司夫系?
 

「ヴォイニッチ手稿」

 この手の話の中では超有名な一冊らしい。全然知らなかったけど。
 全篇が「謎の言語」で書かれており、いまだ誰も解読できていないというロマンあふれる一冊。伝説の暗号解読者もライフワークとして生涯解読に取り組んだものの、あまり判ることはなかったということを「暗号によって」遺したというオツなエピソード等が収録されている。
 中を見てみても、絵の上手い中二病の人が授業中にノートの端に描きそうな幻想的な挿絵がたくさんあり、それがまたかなりロマンをくすぐるのであった。
 ちなみに、現在ではネットで全ページ無料公開されている。そのおかげで研究の幅が広がり、一時期は発見者(ヴォイニッチ氏)による創作——「偽書」疑惑が有力視されていたものの、科学的な解析によって「謎の言語はラテン語並の文法構造を有する」ということが判明し、一転して「誰も何も分からない」という振り出しに戻った。
 ちなみに、AmazonのKindleで電子書籍版が数百円で売られている。ホームページで見るより断然見やすく、私思わず買っちゃった。
 

 

 中を見てみると、意外と目を引くページは少なく、思ったより面白くなかったというね……

 「謎が面白いのであって、解読されたら魅力を失う」というのは、ミロのヴィーナスの両手がどんなだったのか想像するのが楽しいね! という昔高校の教科書で読んだ評論文と同じ趣旨かもね〜と思ったとか思わなかったとか。

 

「野球と其害毒」

 野球がアメリカから輸入された当時、各界の著名人が「野球やってると頭悪くなる」的な批判をこぞって述べた本。新渡戸稲造とか乃木希典とかが。
 この話を読んでて「テレビゲーム黎明期の話みたいだな」と思っていたら、章の終わりに筆者も「ゲーム脳」の話と比較していて、思うことは皆同じなんだなと思ったという小並感。
 最もハッとなった話では、「ベースボールに『野球』という和訳を付けたのは正岡子規ではない」という注釈である。昔トリビアの泉の「ガセビア」であったな〜とハッと思い出した。正岡子規は自分の雅号に「野球」と書いて「のぼ〜る」と読むものを付けたことがあるのでこのような誤解が生まれたが、ベースボールの「野球」とは関係がないのである。という備忘録。
 

「穏健なる提案」

 かの有名な「ガリバー旅行記」の作者が、「貧困層の子沢山が社会問題となっているが、そのような子供は満1歳になったら食料として富裕層に売却すべし」という提案をしたというものである。マジなのか否か、真のところは不明であるが、恐らくは「真っ当な提案をしてきたのにまったく意味をなさなかったから、インパクトのある内容で社会を皮肉った」というのが真相であると思われる。イギリスとアイルランドの関係とか、プロテスタントとカトリックの対立とか、意外と硬派な社会問題が内在していて、とんでも提案の割には笑えない内容である。
 関係ないけど、「ガリバー旅行記」って超つまんないよね。
 

「天体の回転について」

 本著の中で一番印象に残った話がこれである。コペルニクスが著したこの「天体の回転について」はいわゆる「地動説」に関するもので、「天動説」が世の常識であった世の中ではむしろ「地球が太陽の周りを回っている」という説がトンデモ説であったという話である。「地動説」の誕生で最も有名なのは「それでも地球は回っている」でお馴染みのガリレオ・ガリレイであろうが、一番最初にこの説を唱えたのはコペルニクスである。
 この「地動説」にまつわる話でもっとも印象に残っているのは、「当時、目の前の現象を最も合理的に考え抜いた末にたどりついたのが天動説であった」という点である。「他の惑星が地球の周りを回っている」という概念では単純な説明がつかない部分も、プトレマイオスという古代ローマの学者が緻密な計測と計算のもと非常に実測値に近くなる周転円モデル(各惑星は実はめっちゃ複雑な動きをしながら地球の周りを回っているという案)を考案したため、地球から見る各惑星の軌道計算もかなりの精度となり、信頼——というよりも疑う必要すらないものとなっていた。実際、コペルニクスが著書の中で説いた地動説の案には不備があり(地球の軌道を楕円ではなく真円で考えていた)、計算上もプトレマイオスの周転円モデルの方が正確であった。
 で。
 私が恐怖するのは、実はこういうことって現代でもあるんじゃないかな、ということである。
 「天動説」はもちろん間違っているのだが、当時の常識と知識と計算上では、最も合理的で理に適った理論だったわけである。最も根幹である「スタート」が間違っていただけで。
 「スタート」を間違うと、その後の発展の全てが間違いになる可能性がある。しかし、仮に「スタート」を間違えていても、時が経つと案外その部分の議論は忘れ去られがちである。議論の中心はもっと先の部分になり、「スタートが間違っていた」というのは議論のテーマにもならないのである。そもそも論に立ち返ることは、今まで積み重ねてきた時間と労力を全て無駄にする行為でもあり、その点に立ち返ることは、サンクコスト(埋没資産)を気にしてしまう人間の抗いがたい本能が、避けて通りたがる部分であるのかもしれない。
 
 本当によくなっているのか? トンチンカンな方向に進んでいるだけじゃないのか? ということを本気で検証するのは、恐怖を伴うことである。
 

「非現実の王国で」

 自閉傾向の強かった作者が、一生涯をほとんど内に引きこもり孤独に生きてきた中で、密かに自分のためだけに描き続けたファンタジー小説である。現在の世界最長小説。
 ずーっと書いて暮らすというのは、物書きに憧れる者の一つの夢であると思う(実際物書きとして生計を立てている人はもっと複雑な想いであると思うが)。だから、ブレることなく自分の物語を書き続けた姿には、ある種の憧れを抱くのではなかろうか。
 ただ一点気になるところは、ネット等で他情報を調べても、決して「面白い」「傑作」という言葉が出てこないところである。そのため、読んでみる勇気が湧かない。
 ちなみに作者ヘンリー・ダーガーの生涯を主体とした映画もある。が、Amazonでは異様なプレミア価格が付いている。

 

「フラーレンによる52Kでの超電導」

 いわゆる「論文捏造」の話である。この問題は日本では言わずとしれた「STAP細胞」問題がすぐに脳裏に浮かぶだろう。が、私としては、あの問題であんなに騒いだのに、その後の東大教授論文捏造問題は全然騒がれなかったことに日本の学会の闇を感じるのだが……
 

「軟膏を拭うスポンジ」「そのスポンジを絞り上げる」

 「剣により負傷した傷口は、傷口そのものに薬を塗るよりも、傷を負わせたその剣に軟膏を塗った方がよく治る」という話である。このトンデモ話が当時現実に信じられていたのは、対照実験により「剣に軟膏を塗った方が治りが良い」という科学的な結果を得ていたからである。うそー、という話なのだが、要するにこれも「スタートを間違えていた」といった類のもので、要は「当時の塗り薬は、ワニのフンやら何やらで不衛生なものであったから、塗らない方がマシだった」というオチである。
 マジでこういうことってありそう。そもそも論に立ち返る勇気。
 

「物の本質について」

 紀元前から、実は「原子」とか「ブラウン運動」とか「進化」とかを言い当てていた人がいた、という話。生まれる時代を間違えすぎておりましたな。2000年くらい。ちなみに『進撃の巨人』の第1話のタイトルは「二千年後の君へ」である。

 

「サンゴルスキーの『ルバイヤード』」

 これはあんまり面白くなかった。本の内容ではなく、「装丁」が凝られた本にまつわる話。
 

「椿井文書」

 偽書日本代表。各地の地域史を捏造し続けた椿井さん。ただそれは、都合の良いような歴史を作って欲しいという依頼があったから——という奥深い闇ともリンクしていて、ただの酔狂者による遊びとは違うのである。現在でも一部地域史に影響を与え続けているらしい。嘘が覆るチャンスを逸してしまったという点が怖い。
 偽造の仕方が非常に凝っていて、まず偽書を書いたら、「その偽書がもし存在するならば参照したであろう資料(本)も偽造」ということをしていて、なんだか楽しんでいる感すらある。仕事が細かくて素晴らしい。
 

「ビリティスの歌」

 これも個人的にはあんまりビビビッとはこなかった一冊。翻訳家が、無名だった古い外国人詩人の詩集を翻訳して出版した――というテイで世に送り出した詩集。要するに、全てこの翻訳家の創作であったのである。内容が非常に良かったため広く知れ渡ったといういきさつからは、もちろん翻訳家の「詩人としての才能」が証明された形となる。ただこんな嘘をつかずに世に出していたらどうなっていたのかは、永遠に不明である。
 一人の女性(偽作者)の一代記を詩の形で記した構成で、まったく存在しない人物であるにも関わらず、学者たちが「私も知ってるよ~。この人いいよね~」と知ったかぶりして恥かく姿が滑稽ながらも、「自分は果たしてそういうことをしたことがないかな?」とそら恐ろしくなったりした。自分の得意分野であるにも関わらず知らないことがあったとき、かつ、「知ってて当然」みたいな態度で迫られたとき、人はどうしても「えっ? 知らん」と素直に言えないものである。あああああああっ。
 ちなみに余談だが、レズビアンの語源についても説明されている。

 

「月世界旅行」

  人類が月に至るまでの道程を、世界初のSF小説「地球から月へ」「月世界へ行く」の2冊(2冊をまとめて「月世界旅行」と呼ぶ)を通して解説する。
 
 月への旅を夢見た技術者たちは、「月世界旅行」を読み、その空想だったものを現実のものとへと変えた、という話である。そもそも「月世界旅行」も、SFフィクションながらも「もしもロケットで月へ行くならどういったことが必要なのか」ということを当時の知識で詳細に検討した記述が内容の大半を占めており、月に到着後の冒険活劇は本作を映像化した際に監督が他作品から引用したものであったらしい。
 
 フィクションだが、本気でそのディティールを検討する——というのは冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』にも通ずるところである。グリードアイランド編、みたいな。

 

奇書が奇書でなくなるとき、あるいは常識が奇書となるとき

 いわゆる「パラダイムシフト」と呼ばれる現象が起こるときに、奇書は奇書でなくなり、一転して「正しい知識」となった。逆に、正しいとされてきたものが一転して奇書へと変貌するパターンもあった。恐ろしいのは後者で、これは現代でも、ごく日常に溢れている「常識」でも起こりうるんじゃないかと考えている。
 そもそものスタートが大間違いであると、その後の発展全てがトンチンカンなものとなるのである。現在ある常識から発展していった様々な価値観は、根幹にある「常識」という前提が覆ったとき、全てが悪しきものとなる可能性を秘めている。
 たとえば、「教育」とかね。
 笑い事ではなく、教育における価値観の変容は、何度も起こっていることである。昭和初期の体罰でもなんでもありの指導が、現代では子供の人権を最大限尊重する方向へと変わったのだから。
 当時の教育者だって自分たちのやっていることが正しいと信じて取り組んでいただろう。それとまったく同じ理屈で、現在の教育者たちも自分たちのやっていることが正しいと信じているだろう。しかし、またパラダイムシフトが起こる可能性は十分にあり、それが起こった時、現在やっていることは、未来の教育からしたら「とんでもないこと」と成り下がる可能性を秘めているのである。
 「その中」いるときは、ほとんどの人間には、何もわからないし、見えないのである。
 
 天動説の中で生きる限り、地球が回っていることがわからないように。
 

↓動画を視聴せずともこれを読みさえすれば十分かどうかというと、そこは微妙な問題だったりする。どうなんだろう。動画を見ないでこれを読んでも、もしかしたらコンビニによく売っている「マメ知識本」くらいにしか感じないかもしれない。 

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