「グミ・チョコレート・パイン グミ編」 大槻ケンヂ | 映画物語(栄華物語のもじり)

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「映画好き」ではない人間が綴る映画ブログ。
読書の方が好き。
満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。

 

★★★☆☆

 自家発電の話。

 

 私は中学2年頃から大学2年くらいまで、友人達と話すことの8割以上が下ネタであった。これは間違いない。なんなら、イチローも成し遂げていない9割打者だったかもしれない。特に中学2年と、大学1年のときは、私の口から生み出される言葉の中で下ネタでない言葉はなかったかもしれない。否、全ての言葉を下ネタへと変換していたのである。スペースキーの右側に位置する、あのボタンである。

 例えば――

「今日も元気ですね」

 この言葉を下ネタとして取る女子は皆無であろう。しかし、成長して頭の回転がだいぶ速くなった大学一年生ともなれば、この言葉を脳内で下ネタへと即座に変換することが可能なのである。

「朝からとても元気ですよ」

 下ネタとして、こう返すこと請け合いである。

 私の言っていることが全く理解できない女子のみなさん、そのまま、その目の前に広がる道を迷うことなく進んでください。決して振り返ってはいけません。振り返るとそこには、思わず立ちくらみをして吸い込まれるようにはまってしまう底なしの沼が広がっています。一度足を踏み入れたら二度と抜け出すことはできません。

 私の言っていることが不幸にも理解できてしまったそこの女子のお方、こちらの世界へようこそ。いや、すでにずいぶん前から、こちらの住人なのかしら。とにかく、あなたは不幸であるけれど、とても楽しい生き方をしていることでしょう(まあ私の価値観では、ですが)。

 本著は、女子には全くウケない小説である。例えるなら、みうらじゅんの下ネタのような世界観である。

 内容としては、中二病の症状のみをつらつらと書き連ねた小説である。と言っても、言葉として生まれて間もない「中二病」という言葉が全く存在しなかったはるか昔に書かれた作品であることを鑑みれば、かなり時代を先駆けた私小説的作品である。

 ジャンルとしてはまさに、田山花袋の『蒲団』に通ずるものがある。

 思春期から始まる飽くなき性への探求心(ちなみに私は、幼稚園のころからエロかったという自覚がある。物心がついたときから女の子が三度の飯より好きだった)。その探究心は、中学生になるとなぜかにわかに手に入りやすくなってくるエロ本、エロビデオといったエロ情報源にモロに刺激され、激しく開花してくる。

 しかし、ただ一つ足りないものが、「実践の場」である。

 これが、喉から手が出るほど欲しい。夢に出るほど欲しい(そして夢に出ると寝巻が悲惨なことになる)。それほど恋い焦がれながらも手に入れることができない世の中の八割以上の中学二年生の男子諸君(残りの二割はもちろん若くして実戦経験を積むことが許された猛者だ)。そんなアホな男子の行きつく先が、「自家発電」という代替手段なのである。

 悲しいかな――自家発電を、まるで行きつく先の見えない修行のように繰り返す日々を送ることになる日々の始まりである。

 本著には、自家発電に明け暮れる作者を模した主人公ケンゾーの、教室で目立たないいわゆるスクールカースト底辺の男子高校生が「自分は他の人間とは違う特別な存在である」という他の人間と全く同じ幻想に悶々とする日々を、半自伝的に描かれている。クラスでは目立たず、スクールカースト上位層の者たちになんとなく馬鹿にされていることを痛いほど自覚しながら、それでも自分が輝ける日を夢見て、周囲を見下すことで心の平穏をなんとか維持して過ごす日々。そうした者のアイデンティティーの確立には、大抵サブカルチャーが深く関わってくるのは昔も今も変わらない。本著の主人公の場合は、それが映画と本と、そしてロックなわけである。特にロックに関しては、作者の大槻ケンヂが「筋肉少女隊」という往年のロックバンドを率いていただけに、異様に造詣が深い。というか、私ごときには全く話がついていけない。それに一口にロックといっても、現在でいう「ロック」「ロックなやつ」とはたぶん意味するものが微妙に、そしてだいぶ違っていて、当時のロックといえば激しく楽器を鳴り散らして何を言っているんだか全く聴き取れない歌を歌い、最後にはギターやドラムを壊し、ステージ上でう○こを食べて「真にロックな奴だ」と言われる世界である。そこにあるのは「反体制」と「フリーダム」である――らしい。

 現代でいうところのロックは、反体制やフリーダムというより、愛がテーマであったり。もしくは「自分は自分」的な、社会体制に向けての対決姿勢というより、もっと身近な世界に対する反旗であったりする。まあ、私は基本的には音楽に興味がないのでどちらも心に響かないのだが。

 で。

 主人公たちは、自家発電のことを生活の七割に置き、残りの三割くらいでサブカルチャーに傾倒する生活を送っている。「今はまだくすぶっているけれど、自分は他の連中とは違う特別な存在で、いつか大きなことを成し遂げるんだ」というのは生活が充実していない者が誰もが通る道である。そこには、根拠のない大きな夢を無邪気に、あるいはむやみに抱く時間的余裕がある。その時期が中学二年生くらいだとして「中二病」と名付けた伊集院光は抜群のセンスであるといえる。中学二年生でくすぶっていると薄々自覚しているものは、きっと誰もがこの病にかかっていることだろう。逆に、学校生活をこれ以上ないほどに謳歌しているスクールカースト最上位に位置する者たちは、こうした病には罹らないのではないかと思う。きっとそんなことをうじうじ考えている時間もないに違いない。

 中二病とは、光り輝くごく一部の上位層へ向けた嫉妬の発露であるとも言える。反体制というのは、現体制に不満があるから――つまり自分が輝けない現体制に不満があるから生まれるものである。自分が輝ける「はずの」新体制を夢見て、あるいは妄想して、興奮し、溜飲を下げる。

 サブカルチャーとは、そうした物・想いを形作ったものであるともいえる。だから現実世界で輝けない者達は、その世界へ傾倒するし、そうでない者たちを卑下するのである。嫉妬と、憧れという本心をひた隠して――という勝手な論法。

 しかし、私が思うに――だから、こうした者たちもきっと気づいているだろうと思う――クラスで明るく目立って、活発でかっこよくて可愛くて、爽やかで誰からも一目置かれている存在が、なおかつサブカルチャーへの造詣も深いというのが、一番かっこよいのではなかろうか。少なくても、カーストの底辺に生きる者への、圧倒的な安心感をもたらす。明るく元気で、強く美しく者が、自分たちの世界も認めてくれた――そんな奇跡が起きた時、今までの鬱屈した気持ちなどどこかへ消し飛んで、その光り輝く世界に生きる住人に好意を抱かずにはおれない。

 それは、自分も光り輝く世界の一員になれたのではないか、という喜びである。

 これは、ある意味では矛盾である。しかしまた、道理でもある。輝ける者達を卑下して自分たちの世界に生きてきたものの、輝ける者達が自分たちの世界を認めてくれたときの圧倒的な喜び――結局は「自分も認められたい」という単純明快な想いなのである。認めてもらえないから卑下するし、認められると嬉しいから手の平を返すように喜びに満ちあふれてしまう。

 本著で言えば、クラスで非常に目立って誰からも一目を置かれているマドンナ的存在の女の子が、主人公と同じようにいわゆる「名画座」系のマニアックな映画を好きだと分かったときの主人公の喜びに通ずる。自分の趣味が、影響力の強い人間に認められているという喜び――単純な恋心だけでなく、主人公の抱く喜びにはそれがある。

 そういう鬱屈した中二病的生き方を、すげーおバカに描いているのが本著である。

 冴えない高校生である主人公のケンゾーが、毎夜毎夜同じように冴えない友人二人と一緒に酒を飲みかわし(時代を感じる)、ロックを聴き、本を読み、映画を観るという当時のアンダーグラウンドな世界で生きる日々(現代でいえば、目の大きな美少女が大活躍をするアニメを見て、2ちゃんねるを読み、ニコニコ動画の生実況にコメントを送る日々)を送っていると、ある日映画館でクラスのマドンナと出会い、そのマドンナとやがて一緒に映画に行くことになる。その超ハッピーなことがありながら冴えない友人二人にはもちろん隠して、一方でバンドを組もうと計画する、というストーリーである。最終的にはクラスで一番イケてない危ない感じの男子生徒をバンド仲間に入れて、その家の資金(家が金持ちだからという理由もあって入れた)で活動しようと計画するところで終わる。

 こうして書くと真っ当な中二病小説に思えるが(これを真っ当と呼ぶかは不明だが)、前述したとおり、内容の大半は自家発電の話である。自家発電の話をはしょると、上記の内容だけで終わる。だから、女子のみなさんには、本著の奥に隠れる青春ストーリーが理解できず、ただ不快になって終わるかもしれない。

 男子諸君は、こういうユーモアを女性に無下に求めてはいけない。わかってほしいと思う男の方が悪い。

 ちなみに、グミ・チョコレート・パインというのは、ジャンケンで勝った方がその勝った手に応じて階段を上るあのゲームのことである。人生はこの「グミ・チョコレート・パイン」みたいなものであるらしい。そうなのか?