「ブレイズメス1990」 海堂尊 | 映画物語(栄華物語のもじり)

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満点は★5。
茶平工業製記念メダルの図鑑完成を目指す果てしなき旅路。




★★★★☆

 弱者は侮辱に耐えて生きていかなねばならないという話。



 海堂尊の「バチスタ」シリーズに類する「桜宮サーガ」の一篇である。時代的には「バチスタ」シリーズよりだいぶ過去に遡った話となる。天才外科医「天城」の前に、最終的には全てがひれ伏していく様を描いている。この「天城」のモデルは、どう考えても前回の記事でレビューを書いた『外科医 須磨久善』の須磨氏であろう。私は偶然、これら2冊を続けて読んだため、笑えるくらい同じ経歴に一人頷いていた。この天才医師「天城」を中心として、主人公世良を狂言回しに据え物語は展開される。

 海堂尊の桜宮シリーズにはよく「天才」が出てくる。その天才は大抵多弁であり、主人公をよく言い負かす。その理論攻めと対を成すように二流・三流の小物が出てきてなんだかんだと天才の邪魔をするのだが、決戦の場面でディベートで打ち負かして読者の溜飲を下げる。完全無欠のように見えるその天才にも、その大きな志を裏返すような大きな傷が内面には隠されている――というのが、大体のパターンである。言ってみれば『ミナミの帝王』シリーズが「竹内力が怖い→債務者を追いかける→竹内力が怖い→債務者が別の悪者に騙されてお金がないと知る→竹内力が怖い→法律の知識で助けてあげる→竹内力が怖い→債務者に『これで人生やり直せ』と言ってお金をあげる」というパターンで構成されているのと同じである。その是非を論じたいわけではなく、きっと作者の海堂尊はこんなふうになりたいのかなぁということが言いたいのである。天才達はいずれも性格があまりよろしくないにも関わらず、大抵好意的に書かれているところからもそれが窺える。

 なぜこんなことに言及するのかというと、何を隠そう、私もそれに近いものがあるからである。私は残念ながら天才ではなく、幼少の頃に自分が思っていたより、自分には実力がなかったことを自覚している。だから、現在の職業に対しても「自らの力で掴み取った」という意識ではなく、「力がなかったからこれにしかなれなかった」という想いをずっと抱き続けている。それは残念ながら今でもそうである。だから得てして、同じ職業やそれに従事する人に対して否定的な見方をしてしまうことが多い。

 しかしその一方で、この職業の中で「こうなりたい」という理想像は存在するし、その理想を体現したような目標となる人も存在する。また、自分の理想像とは方向性が違っても「この人はすごい」と素直に思える人もいる。

 劇中で描かれる海堂尊の現在の医療に対する憤りや不満、一方での天才に対する肯定や天才が取る行動や言動の数々は、私が抱くアンビバレントな想いと源泉が同じであるような気がする。「自分への失望=そんな自分が就いた職業への軽視」と「そんな職業の中で輝ける存在=理想の自分」。自分への失望と自分の理想との狭間で生み出されるのが海堂尊の書く「桜宮シリーズ」ではなかろうか。

 冒頭のあらすじで書いた一文は、実際に本著の中に出てきた一文である。天才「天城」が自身が勤務する病院の医師達に向かって、自分達が無能であることをつきつけて己の言うことを言い聞かせる場面でのことである。作者はきっと「弱者」の側に自分を置いて、あの一文を書いたのではないだろうか。地の文での言葉なのに、あまりにも断定的な物言いなので目を引いた。

 自分とその職業を卑下しながらも、一方では圧倒的な実力者に先導されて良いものになることを願っている。自分もそちら側になりたかったのに、なれないことを確信している。だからそのある種歪んだ想いを人にぶつける。小説という形を取って。

 海堂尊の小説で描かれていることは、その繰り返しであるような気がする。だからこそ私はハマるのだろう。同時に、こういう風に扇動的な物言いをしている限り、理想の自分にはなれんなーと身の引き締まる思いもするのである。文句ばっかり言ってるようじゃあ、ダメだね。劇中の「天才」達のように、文句があるなら行動をしなきゃね~

 それにしても最近、説教臭い記事になりがちでいかん。もっとアホな文章を書かねば。。。


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