平安中期を舞台にした新ストーリーが発表されました。
源頼光って誰やねん!っていう感じの方もそうでない方も、今回は源氏を中心に武士の起こりPart.2を考察してみたいと思います。
ちなみにPart.1はコチラ。
前回は武士団の「下から上」への組織化について考えてみました。
今回は逆に「上から下」について考えてみたいと思います。
まず、武士の発生は平安中期頃と言われていますが、それ以前には武士というのは存在していなかったのでしょうか?
例えば、有名どころでいうと、平安初期に活躍した、初代征夷大将軍の坂上田村麻呂などは武士ではなかったのでしょうか?
あえて区別すると、田村麻呂は武士ではなく「武官」でした。
田村麻呂は官位を与えられている公家であり、貴族の中でも武力をもって朝廷に仕える立場でした。こうした人たちを、当時は
「もののふ」(武者)
と呼んでおりました。
そして、公家に仕える形で、武芸をお家芸とし、武装を朝廷から公認された「下級貴族」、「下級官人」、「有力者の家人」からなる人々が、家政や警固などの在地の実務を担当するようになります。
これらのうち、四位、五位の下級貴族を
「諸大夫」(しょだいぶ)
といい、
それら諸大夫の下に仕える六位のものを
「侍」(さむらい)
といいました。
この諸大夫、侍が実は、「武士」(さぶらい)のはじまりです。
なので、当初は武士(さぶらい)は武官(もののふ)よりも位は下でした。
では、このさぶらい、武士はどんな形で出て来たのか。
ここで、
臣籍降下(しんせきこうか)
という言葉をご紹介します。
これは、天皇家の一族である皇族がその身分を離れて、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいいます。
(つまり、逆に言うと、当たり前ですが皇族には姓はありません。姓はもともとは天皇の臣下であるという意味です)
臣籍降下は古く奈良時代以前からありましたが、平安中期に、第56代清和天皇(在位858-876)のお孫さんで臣籍降下されたのが、
「源基経(みなもとのもとつね)」
さんです。調べてみると、平将門、小野好古、藤原純友らと同時代の方でした。
ようやく源氏が出てきました。
といっても基経さんが源氏の初出ではなく、第52代嵯峨天皇(在位809-823)の臣籍降下の際に、「天皇家と源を同じくする」という意味で源氏が賜されたのが始まりです。
この基経さんがいわゆる「清和源氏」の祖となり、その嫡子が満仲、そしてさらに3代目J...ではない3代目が頼光さんです。
こうして、諸大夫の中でも平氏と源氏が力をつけて武士という職能集団の社会的な地位を向上させ、やがてその軍事力で貴族社会を事実上終わらせ、中世の時代を拓きます。
その際に、前回お話しした、「下から上」へと起こった田堵を中心とする武士団は、「上から下」へと起こった諸大夫を中心とする武士団に組み込まれていき、主従関係を結び、「一所懸命」にわが領地を守り抜く戦の世、武士の世を迎えるのです。

