人生イージーモード

さて、職場で人事異動がありました。
この時期ですから、たくさんの方が辞令を交付されるなり、
新生活が始まるなりしていることでしょう。
そんな中、わたくしは念願叶って人事異動となりました。
ある意味では仕事こそ私が病んでいる原因でもあったわけで、
そのこと自体は喜ばしいことです。
ただ、私の場合、人事異動とはいえ、環境がガラッと変わるわけでもなく
また、蓋を開けてみたら大してやっていることも変わっていないこともあり、
あまり心機一転という気がしません。
それでも、これまで気にしていたことを気にしなくてよくなったことも大きいらしく、
かな~り、気楽になりました。
人事異動の内示があってから、表情が変わったと言われたことも何度か。
このブログのメッセージボードの冒頭にもある通り、頭使って考えなきゃならないことも無く、
本当にボケそうです。
さらに、なんとなく気が大きくなっているように感じます。
相変わらず定期的な通院をしており、寝る前に薬を飲んでいますが、
強制休養を言い渡されたときに比べたら雲泥の差です。
根拠のない万能感というか。
加えて何もかもどうでもよくなってきました。
特に頭使って何かやらなくてもなるようになるし、
流石に突如自分がいなくなったら困る仕事はあるでしょうが、
それも絶対ではないし、後任が適当にこなすでしょう。
そうなると、私はこの先、何をやっていこうか。
これまでは得体のしれない「老後」とやらがやたらと気になって、
ひたすら金を貯めることに執心していたが、
その老後すらあるかないか分からぬ。
先の事は先になってみないことには何もかもわからぬ。
そういう考えに行きつくと、相対的に「今」が重要になってくる。
若い衆が異口同音に唱えているあれだ。
刹那的と笑うことなかれ。
私にしてみれば、来るか来ないか分からん未来を気にする方が余程無駄なことだ。
月並みに言えば、明日どうなってもいいように今を後悔しないように生きよう、と
こういうことだろうか。
と、まぁ、別段、崇高なことを書こうとしているわけでもないし、、
いつも通りの軽い文面に戻そう。
そうそう、この「重い」文と「軽い」文はどうちがうのだろうか。
例えるなら明治の文豪の書いた小説は「重い」文であり、
昨今のライトノベルは「軽い」文だろうか。
実際に読み比べてみると、文章の密度なのかなという一応の結論を得た。
同じような文字の羅列が、読む者の想像力によって情景に変わる。
このイメージ(情景)にも挿絵に誘導されたものと文字によって誘導されたものでは
その密度が違うように感じる。
そしてライトノベルはその名の通り読み易い。
読むことに対して負荷をあまり感じないのだ。
大して明治の文豪と言われた小説家の著作を読んでみたりすると、
一節読了後の疲れというか、一服したくなる感覚が半端ない。
両者の優劣について語るつもりはさらさら無い。
活字に触れることは妄想力を鍛えることになることだけは間違っていないと思う。
この先、多くの人が良い本に出合えますように。