災害とは何か?もしくは人間(もしくはマスメディア)の傲慢について考える。 | music-geek

災害とは何か?もしくは人間(もしくはマスメディア)の傲慢について考える。

 今年は大雨の当たり年であるように思われます。短時間で累積雨量が大きくなると平地で窪んでいるところはことごとく水溜りになるということが改めて確認できました。線状降水帯だの短時間大雨警報などが乱発されて「大変だ!」と世間が狼狽する一方で、今回の台風で伊豆大島みたいに24時間で650ミリの雨量を観測しても大雨で人的物的被害がほとんど伝えられない、すなわち災害が発生しないところもありました(2013年は820ミリくらい降って大規模土砂災害が出た)。災害が出なければどんなに大雨が降ろうが何が起きようが「自然現象」で終わります。災害になるかならないかは運でしかありません。そして人間の歴史なんてものはこうした自然災害とのイタチごっこの歴史であったはずです。

 長年にわたって人々は自然災害に対する対策を講じてきています。それでも災害になるときはなるのです。それが自然だからです。しかしながらなぜか日本のマスメディアは災害になると「なぜこうなってしまったのか」という問いかけを含む報道をします。「災害は絶対的に防げるもの」という勝手な前提条件をつけてどこかに悪者を作ろうとするのです(この逆の手口で原発安全神話を喧伝していたように思えます)。日本のマスメディアのこうした姿勢は、私には単なる自然に対する傲慢にしか見えないのです。私は阪神大震災を東灘で被災しましたが、起きるものは拒みようがなく、たまたま死なずに済んだだけで、当時勤めていた企業で転勤になるまで神戸に留まって自分のできる復旧作業をしただけのことでした。生活に関わるインフラなどなどが復旧して日常が戻った時点で「災害」である状態からは解放されるので、それまでをどうポジティブに過ごせるかが鍵であると震災で痛感させられました。

 

「ヒト」という動物には自分の巣を作ってしまえばそこから離れることは基本的にはありません。帰巣本能が強いので、災害が起きたからそこを見捨ててとっとと新しいところに巣を作るということはしない動物であるように思われます。だから、自然災害が起きて自分の居所なり財産が毀損されて一定期間不自由を被ることが災害なのであって、その不自由が解消されるまでの艱難辛苦に対するさまざまな政策でカバーすることが行政の仕事として大事だし、そこに対してそれだけきめ細かい対応をできるかという行政の力量が問われるのであろうと思われるのです。

 良寛が地震で被災した友人に送った手紙に「災害に遭う時分には災害に遭うがよく候。死ぬ時分には死ぬがよく候。是は是艱難辛苦を乗り越える妙法なり」というのがあります。つまり、現実を現実として捉え、受容し、その中で最善を尽くせ、ということです。

個人的には阪神大震災みたいなことをまた経験するのはもう勘弁なのですが、もしも来てしまったら甘受してそこでもがくことしかしないと思います。