なぜ西洋音楽理論は難しく見えるのか? | music-geek

なぜ西洋音楽理論は難しく見えるのか?

クラシックにしてもジャズにしても音楽理論は難しいという印象があります。私も独学なので、クラシックの理論書を日本語で読むのはかなりしんどいです。日本語で読んでいると最初の方の主和音と属和音でなんでドミナントが「属」なのか?というような時点で混乱するのです。海外の人と話をするのであれば別に日本語から英語に再変換しなくてもそもそも英語で読めてれば良い、ということに気がついたので、ジャズのセオリーブックは英文で読んで腹落ちしました。そもそもトランペットみたいな単音楽器であれば、短音でメロディを紡ぐための音楽理論的知識の裏付けがあれば十分なので、さほど難解なことはありません。

なぜなら、ユーラシア大陸の民族音楽はすべてモードミュージックなので、その音楽で使われるスケールについての理解があれば大体終了だからです。ほぼ全ての民族音楽は特定のスケールから逸脱した音を演奏することはありません。

ところが西洋音楽、すなわちヨーロピアンクラシックとジャズではそうはいかないのです。クラシックも19世紀終わりくらいまではスケールの中で完結していました。モーツァルトのハ長調の曲はその大半が白鍵だけで弾けます。ところがロマン派末期くらいで「調性の壁」ってのが出てきて、これを東欧の作曲家やドイツのシェーンベルグあたりが壁を取っ払ってしまいました。それによって「スケールに規定されない音も自在に使える音楽」になったのでややこしく見えるのです。ジャズのインプロヴァイズの進化の過程を見ると、黎明期の頃はほぼダイアトニックスケールなのです。これにブルーノートが加わり、オルタードテンションが加味され、その他あれやこれやがあってなんだかややこしいことに見えてしまっているんです。そしてその一方で、基本的なスケールである長音階と短音階についての基本的な知識(日本の学校教育ででも教えているものです)が欠如した状態でジャズなり何なりの理論書を紐解く人が大半なのです。英語を学び始めたばかりの子供が大学受験の参考書を見るようなことが多いことが音楽を無駄に難しくしているとしか私には見えないのです。スケールアウトをやりたかったら、その前にインサイドのことを十分に熟知しておく必要があって、アウトしたかったらインサイドでないことをやれば良いだけなのですから。で、これは実際に演奏してみないとコードの上で自分のやってることがどうワークするかを確認できません。外国語会話と一緒で、下手でも間違えてもいいから実際に音を出さないといつになってもわからないんですが、ここで日本人独特の「間違えたら恥ずかしい」「間違えてはいけない」という強迫観念が出てしまって、結局対して音も出せないのでいつになっても上達しない、という現象が起きるわけです。同じ現象は外国語会話でのコミュニケーションでも非常によくみられます。その間違えかたですらその人の個性であることが忘れられているのです。少し脱線しますが、これは今の日本人が抱える大きな問題です。

ともあれ、西洋音楽理論は難解ではなく「奥が深い」のです。例えば枯葉やFly me to the moonのような曲を伴奏トラックにしてスケール練習をしても音楽的には破綻が起きないのです。それはなぜかを理解するためにセオリーがあると思います。多くの人が「木を見て森を見ず」になってるんです。まぁこれはビバップ期にマイルスがディジーに質問してたことなんかを見るとみんな通る道なんだなぁ、とは思うのですが。

ということでまとめ。

西洋音楽理論やジャズの和声のセオリーは難解ではありません。奥が際限なく深いだけ、です。