「作曲家は歴史家であるべきだ」という話。
これ20年以上前の話です。確か2001年の1月(2000年だったかも)にトム.ハレルの自宅にビッグバンドの譜面を買いに行った時です。1998年に彼がリリースしたビッグバンドのアルバムの中の曲で演奏したいのがあったのでダメ元でメールしたのがきっかけでNYCに行った時にお宅にお邪魔して購入させてもらった時の話です。彼の練習室で2時間くらい話し込んじゃって、それはそれは得難い時間を過ごしたのですが、その時にどういう話の流れだったか忘れたけど彼が行った言葉がとても印象的でした。曰く
「作曲家は歴史家であるべきだ」
と。
もう完全同意なのです。古今東西ジャンルを問わず星の数ほど曲がある中で自分のオリジナルなんてやすやすと言えるものではないと思っているのですが、これは今でも昨日のことのように覚えている言葉です。彼の新しいアルバムは常に新作しか収録しないのですが、常に「!」って感じさせる曲が並んでて、もう脱帽なのです。自分が聴いてきたあまたある音楽とその知識から新しいことを作り出すことはもう本当に難しいのです。コロナ後はいろいろあって製作のペースが下がっていますが、ほぼ毎年新作を出してくるのには口あんぐりなのでした。
この次の年だったか、ロングビーチでのジャズ系のイベントに参加してる時にそこにきてた日本人でのちょっとした集まりがあって、そこでとある方と話していて「ビッグバンドのアレンジの歴史でいつ頃からハーマンのステムを抜くようになったのかとか興味あるんですよね」みたいなことを言ったら「そんなの何の意味があるの?」ってバッサリ言われたことがありまして、いまだにそれを思い出して不愉快になることがあります。古いことを知らないで新しいことなんかできないもの。実際の本人はそうではないのかもしれないけど、この時のことも反面教師的に今も鮮明に耳に残っていることです。
蛇足ですが、ジャズのアドリブが難しいっていうイメージが取れないのは何でだろうって考えて民族音楽を含めて相当色々聴きましたが、結論は「ユーラシア大陸の民族音楽は全てモードである」でした。全ての伝統的な民族音楽は規定されたスケールに拘束されるんです。ドイツクラシックはピアノの白鍵のスケールを基準に考えるものでしたが、時代が下がって調性の壁に突き当たって20世紀前半に壁が破られたわけですが、それは例えばトライトーンサブスティテューションを使って別の複数のスケールを同居させることができるようになった(他地域の民族音楽ではそうなっていない)ことによって高度に複雑化された、というのが今ある私の中での答えで、これについてトムさんがどう答えてくれるかを考えるとワクワクします。会いに行くのは難しそうなのでメールで聞いてみようかなぁ。