今回は少しクリスチャンに向けてのお話になります。
途中で読む気が失せてしまう方のためにも、最初に結論を書いておきます。
それは「霊的な世界での行い(現象)は、必ず肉体で感じて受け取るこの物質的な現世でも同じように起こる(現れる)」という法則が、世界には働いているということです。
それでは本題に移ります。
聖書に登場する「幕屋」をご存知でしょうか?
実は、幕屋は日本にある神社の構造ともよく似ていて、後に「神殿」として建てられ、「神の宮」と表現されることもあります。
旧約時代は生贄の制度と過ぎ越しの祭りなども含めて、イエス・キリストが十字架上で完了させた贖いの型としての役割もありました。
また、この幕屋を「人体」として比喩的に表現している聖書箇所も多く存在します。
新約聖書 コリント人への手紙 第二 5章4節
この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。
それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、
それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
新約聖書 コリント人への手紙 第一 6章19節
あなたがたは知らないのか。
自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
人体の構成要素は「霊・魂・体」ですが、霊である神が御臨在される幕屋の一番奥にある「至聖書」が人間の「霊」の部分にあたります。
ちなみに「聖所」が「魂」、「外の庭」が「体」の部分にあたります。
人は、デフォルトの状態ではこの「霊」の部分が死んでいます。
これは神の御臨在(聖霊)が無いということで、真の神とは断絶されている状態なのです。
それでも「魂」である「聖所」に置いてある「燭台」に火を灯し、世にあって暗くなりがちな魂を光で満たしている人は幸いです。
この燭台は「七枝の燭台」(メノラー)であり、中央の火皿がエッサイの根から出た新芽(メシア)であり、「イエス・キリスト」です。
残りの6枚の火皿は「知恵・分別・思慮・勇気・知識・神への畏敬」です(旧約聖書イザヤ書11章1〜2節を参照)。
また、聖所にある「机」には供えのパンが左右に6枚ずつ重ねて計12枚置いてあり、これが「御言葉のパン」つまり聖書66巻のことです。
そして「香壇」では天まで立ち昇る「香」を焚き、神への「祈り」を捧げるのです。
これらのことで人間の「魂」が整えられます。
「外の庭」では様々な儀式が行われますから、まさにこの場所が「肉体」の働きと言えるでしょう。
このように「幕屋」は様々な型として存在し、本来の理想的な人間の姿を映し出しているのです。
それでは話を「至聖所」へと戻し、この至聖書に安置されている「契約の箱」について見ていきましょう。
契約の箱についての詳しい解説は割愛しますが、日本で言うところのお神輿のようなもので、中には三種の神器ではありませんが、「マナを入れた壺」「アロンの杖」、神御自身によって十戒が刻まれた「契約の石板」が入っていました。
重要なキーワードは、神が自ら石板に「十戒」を刻んだこと、そしてこれが至聖所にある契約の箱に納められていたことです。
至聖所は人間の「霊」の部分でしたね。
これを踏まえて新約聖書のヘブル人への手紙8章10節を読んでみましょう。
ちなみにこの聖句は旧約聖書のエレミヤ書31章33節からの引用でもあります。
わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。
すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。
こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民(イスラエル)となるであろう。
これは新約時代にイエス・キリストの福音を信じ、聖霊を受けた者と神が交わす新しい契約の内容です。
神は自ら我々の心に御自分の「律法」を書きつけると仰っています。
この律法が「十戒」なのです。
なぜなら、クリスチャンになるとデフォルトでは死んでいた「霊」の部分、つまり「至聖所」に聖霊が入り、人は新しく生まれ変わりますが、この至聖所に安置されていた契約の箱の中に入っていた律法は、神御自身が十戒を刻んだ「契約の石板」だったからです。
新約聖書 コリント人への手紙 第二 6章16節
わたしたちは、生ける神の宮である。
神がこう仰せになっている、
「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。
そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。
つまり人は、クリスチャンになると、地上の幕屋(神の宮)としての機能を回復するのです。
これでも納得がいかないという方は、最終的に「イスラエルの家と立てた契約なのだから異邦人の我々には関係ない」と言うのかもしれませんが、それでは新しい契約の預言は、異邦人には一切関係のないものとなってしまっても良いのでしょうか?
旧約聖書では「イスラエル」はもちろん「ユダヤ民族」のことを指していますが、新約聖書での「イスラエル」は神の民となった「クリスチャン」のことも指しています。
旧約聖書での預言は直近に起こる出来事だけではなく、新約時代から未来の出来事にも言及していることが多々あるので、「イスラエル」という単語を全て「ユダヤ民族」だと解釈してしまいがちですが、ご紹介したように預言自体が特に新しい契約について言及している場合などには注意が必要です。
今まで「イスラエル」を文字通りの「ユダヤ民族」だけのことだと解釈してきた方は、以下の御言葉を読んでみてください。
新約聖書 エペソ人への手紙 2章12節
またその当時(異邦人)は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。
新約聖書 ローマ人への手紙 9章6節・27節
しかし、神の言が無効になったというわけではない。
なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。
また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる。
たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。
さて、ほとんどのクリスチャンはこの「十戒」がイエス・キリストの十字架の御業によって廃棄、または変更されたと信じていますが、果たしてそうでしょうか?
我々の主、イエス・キリストでさえも地上で「完璧な幕屋」としての生涯を歩まれたではありませんか。
その御方が、天地が滅び行くまでは律法の一点一画もすたることはないとハッキリ仰っています。
それに聖霊を受けているクリスチャンでも、「十戒」を拒否する自由意志は持っています。
イエス・キリストの福音を信じて宣べ伝えてはいても、周囲にはLGBTQを認め、偶像崇拝を続けているクリスチャンが五万といることを我々は知っています。
彼らはなぜ聖霊を受けているはずなのに、心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛さないのでしょうか?
このようなことが起きているにも関わらず、神の律法と戒めである「十戒」が無効になったなどと、何を根拠に断言できるのでしょうか?
少しでも疑って聖書に立ち返ってみることを、なぜ止めてしまったのでしょうか?
クリスチャンであれば旧約聖書のダニエル書7章25節の預言はご存知でしょう。
彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。
彼はまた時と律法とを変えようと望む。
この預言は、過去にローマ・カトリックの教皇権が独断で「十戒」を変更することによって成就していますが、それを神の宮である現代のクリスチャンが率先して加担する側に立つようなことがあって本当に良いのでしょうか?
我々が神に与えられている人類普遍の戒めを、知ることも守ることもしなければ、我々も自分たちが恩恵を受けてきた現世(国)での法律(憲法)で、同じように苦しむようになります。
なぜなら「霊的な世界での行い(現象)は、必ず肉体で感じて受け取るこの現世でも同じように起こる(現れる)」という法則があるからです。
これを忘れないでください。
今一度、神がクリスチャンの心に書きつけてくださる「律法」とは何なのか、再考していただく機会となれば幸いです。
私も「モーセ律法」と「十戒」は区別していますし、イエス・キリストの十字架の御業によって廃棄されたのは「モーセ律法」だけだと理解しています。
我々はもちろん行いによって救われるのでありません。
この十戒ですらなかなか守ることができません。
しかし、旧約聖書のエゼキエル書36章26〜27節で
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
と、神が新しい契約についてこう預言されている以上、神が我々を歩ませ、神が我々に行わせてくださることを信じるのです。
一. あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない
二. あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない
三. あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない
四. 安息日を覚えて、これを聖とせよ
五. あなたの父と母を敬え
六. あなたは殺してはならない
七. あなたは姦淫してはならない
八. あなたは盗んではならない
九. あなたは隣人について、偽証してはならない
十. あなたは隣人の家をむさぼってはならない