「あなたはこの世界が嘘だらけだと気が付いたとき、人々を苦しめている巨大悪と戦うための武器を持っていますか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょうか?
暴力的には考えないでください。
もちろん私も銃や爆弾を持っているわけではありません。
巨大悪の定義ですが、支配者層であるロスチャイルド家やEUの王侯貴族、国際金融資本家、グローバリスト、その尖兵であるアメリカ合衆国(DS)やロックフェラーグループ、つまり悪魔崇拝者のことです。
このような巨大な組織に抗うには、団結や革命のような変化が必要で、先ずは自国の政府の権力者たちから相手にしなければなりません。
戦う手段が選挙だろうがデモだろうが「数の力」が必要だということです。
ですが「数の力」はリスクも伴います。
権力者との闘争がエスカレートすると、どうしても民衆が暴力的になることは常だからです。
これではどちらが勝っても両建てしている巨大悪(支配者層)の思うツボです。
それにこの暴力に巻き込まれて命を落さないという保証はどこにもありませんし、そうなってしまっては元も子もありません。
子供や孫の世代のために戦うことは有意義で立派なことですが、せっかく回復された世界を自分自身の目で見て体感しなくては、喜びも半減してしまいます。
それに権力者が持つ圧倒的な暴力装置を上回る「数の力」は、集めること自体が非常に困難です。
また、日本人の事なかれ主義と同調圧力の中で、権威に忖度しないような強いカリスマ性のある指導者も必要です。
現実的には、日本で政治に強い関心があって目覚めている国民は1〜2%しかいないと言われている現状を少なくとも50%にまで引き上げ、現在の選挙での投票率が50%のところを80%以上になるよう民衆の意識を高めていかなければなりません。
非常に大変な道のりではありますが、この茨の道を歩んでいこうと地道な草の根活動をされている方は一定数おられます。
本当に頭の下がる思いでいっぱいですが、私は「数の力」ではなく、霊的な面から「個の力」を発信したいと思っています。
我々は、巨大悪に対抗するためには「数の力」を集めなければならないと信じ込まされています。
しかし、この巨大悪には、実は存在する目的があると言ったらどうでしょうか?
ほとんどの人がアホらしいと思うでしょうが、書きます。
それは、人と世界を創造した真の神を探し求めることをせず、己の欲望のまま好き勝手に生きている我々人間を裁くために(目覚めさせるために)この巨大悪は存在しているということです。
聖書を読めば分かりますが、神は悪を裁くために別の強力な悪を用いることがよくあります。
もちろん最終的には両方の悪が裁かれることになるのですが、このような神の御性質を誤解なく聖書から学び取れば、世界に起こっている様々な異変にもいち早く気付くことができるようになるのです。
また、巨大悪は最初から巨大だったわけではありません。
我々人間が神の存在と戒めを忘れていけばいくほど、それに比例して悪は巨大化していったのです。
つまり、悪が巨大になるまで育ててきたのは、神を否定してきた我々の「数の力」が先だったのです。
ですから巨大悪に「数の力」や人間の理屈だけで抵抗しようとすることは、全知全能の神に抵抗していることと同じであり、勝つことはそもそも不可能なのです。
ただでさえ途方もなく巨大な悪なのに、その後ろに控えている絶対的な正義である全知全能の神まで相手にすることになるのです。
この理屈が理解できないと、一生虚しい活動に身を捧げ続けることになります。
ですから我々は、物質的な「数の力」ではなく、霊的な「個の力」を使うのです。
ちなみに巨大悪は「個の力」に気が付かせてくれる存在でもあります。
巨大悪の規模に絶望し「数の力」だけでは何も解決できないと悟ったとき「個の力」を見出す機会を得るのです。
それではなぜ「個の力」が重要なのでしょうか?
それはこの世界自体が「個の力」によって創造されたからです。
この世界を創造された神は唯一の存在であり、この御方が言葉を発したときに「無」から「有」が出現し、それが「無限」に広がって世界が構築されていったからです。
ここに、「1」(神)」という存在が「0」(無)から「∞」(無限)を創造したという、人間には理解しがたい不思議な法則があるのです。
この法則はとてもパワフルであり、神の似姿に創造された我々人間にも適用されます。
人間に先ず必要だったのは「数の力」ではなく「個の力」だったのです。
ですから八百万の神のような役割分担のある「神々」(数の力)には力がないと言えますし、元々そんな存在はいないのです。
「個の力」が発揮されるためには、人間のデフォルト状態では失われてしまっている神との個人的な関係の回復が必要です。
この回復は必ずイエス・キリストという個人を通して行われます。
この御方だけが真の神との橋渡しとなってくださるのです。
教会組織や教祖のような宗教指導者を通す必要は全くありません。
神との関係回復は極めて個人的なものだからです。
教会のような組織は信徒が集まるので「数の力」だと誤解されますが、これは信徒がお互いに成長し、助け合い、励まし合い、祈るために存在する場所であって、政治に参画するためにあるのではありません。
話を戻しますが、イエス・キリストという御方は「数の力」に頼らず、むしろ十字架の犠牲という「個の力」によって全人類に救いをもたらした救世主です。
ここにも、「1」(イエス・キリスト)という存在が「0」(十字架の犠牲→つまり死)から「∞」(全人類の救い)といった不思議な法則が見られます。
ところで、世の高ぶる者たちを思い出し、見回してみてください。
自称救世主を語る教祖や宗教指導者たちは、必ずより多くの信者を自分の下に獲得しようとします。
そして自分が犠牲になるようなことはせず、この信者たちを犠牲にしてでも絶対に手放そうとはしません。
自分たちの大事な資金源だからです。
本物の宗教指導者は、最初は弟子を集めて訓練しますが、その後は直ぐに世に出ていって「良い知らせ」を人々に伝えて歩くようにと、弟子たちを解き放ちます。
本物と偽物は必ず真逆の行動をとる、これは真理なのです。
ここで新約聖書のエペソ人への手紙6章13〜17節を引用します。
それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。
それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
この聖句からも分かるように、霊的な武器と防具は個人的に装備していかなければならないことが分かります。
聖書は信徒がお互いに愛し合うこと、そして皆で集まって祈ることは勧めていますが、血肉による物質的な戦いのために団結しろとは書いていません。
サタン(悪魔)に抵抗し、罪に抵抗することは、誰かが代わりにやってくれることではないからです。
そして「個の力」となる武器は「御霊の剣」、すなわち、「神の言(ことば)」であると書いてあります。
そうです、私がこのブログの冒頭で質問した「巨大悪と戦うための武器」とは、聖書に書いてある「神の御言葉」だったのです。
この「神の御言葉」を個人的に装備していくのです。
不謹慎かもしれませんが、この世界がRPG(ロール・プレイング・ゲーム)と同じようなゲームだと仮定すると、プレイヤー(祈り)である我々が成長してレベルが上がり装備が充実してくれば、敵である悪魔と戦うことも容易になっていくのです。
ちなみにラスボスであるサタン(大きな蛇=ドラゴン)は、既にイエス・キリストによって頭を踏み砕かれ、無様に敗北しています。
子羊だけでなく獅子にもたとえられるイエス・キリストは真の勇者なのです。
しかもイエス・キリストを個人的な救い主だと受け入れた者は、巨大悪によって迫害を受けて死んだとしても、また、100年かそこらの寿命で死んだとしても、そこでゲームオーバーではありません。
我々は「復活」して神が回復された世界を自分自身の目で見て体感することができるのです。
これがラスボスを倒した勇者のことを信じた者に与えられる永遠のボーナスステージです。
しかし、仮にゲームだと言うからには、我々人間が守らなければならない厳格なルールもちゃんとあります。
それが「神の戒め」であり、この戒めが書いてある聖書はいわば人類における最高の攻略本と言えるのです。
「戒め」はあなたを縛り人生をつまらないものにする足かせではありません。
その証拠が次に紹介する聖句にあります。
新約聖書のヤコブの手紙4章7〜8節を引用して終わります。
神に従いなさい。
そして、悪魔に立ちむかいなさい。
そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。
神に近づきなさい。
そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。
皆さんが「数の力」によって戦わなければならないという世界線のマトリックス(母体)から抜け出し、父なる神のもとで新しく生まれ変わることができますように、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン