私はSNSの「X」(旧Twitter)を利用しているのですが、聖書の御言葉やクリスチャンの投稿には目もくれず、世界情勢や政治経済の話題ばかりをリツイートしている不良クリスチャンです。


しかも自発的に拡散している情報は陰謀論じみたネガティブなものばかりです。


ですからクリスチャン界隈では「アタオカ陰謀論者」として扱われ、その他のフォロワーには、あまり話が通じない宗教垢の「カルト信者」だと思われています。


しかし、私のような宗教垢が世界情勢や政治経済のネガティブな面ばかりを発信しているのにはちょっとした理由があるのです。


もちろん、あのように危険極まりない新型ワクチンを、支配者層が半ば強制的に民衆へ接種させようとしたことについて、無闇に打たないよう前もって警鐘を鳴らすためでもあるのですが、それよりも、世界中の人間が満遍なく堕落し、邪悪で狂気に満ち溢れている時代になったことを、もっと知ってもらいたいという思いもあるのです。


……と、偉そうに書いてはみたものの、そんなことは私に言われなくても周知の事実でしょう。


ですから私の真意はこの先にあります。


私が皆さんに感じてほしいことは「通常運転の日常に潜む世界とのギャップ」この強烈な違和感です。


もう陰謀論を研究し、都市伝説のチャンネルを見なくても、世界各地で悪事を隠すこともなく欺瞞が公然と行われるようになってきました。


悪いことを良いことの様に見せかける偽装ですら堂々としなくなってきているのです。


しかし、この様な狂った世界に住んでいながら、一歩外に出て周囲を見回してみると、そこには昨日と何も変わらない通常運転の日常風景が広がっています。


毎日忙しく子育てに追われ、仕事や学校に出かけて行き、通勤通学で使用する満員電車も、お弁当を買うコンビニも、何もかもいつも通りです。


この様にアンバランスな世界線を通常運転だと信じて疑わない人へ、世界各地で起こっている終末の前兆を見てもらうために、私は下らないリツイートを繰り返しているのかもしれません。

ところがこの様な日常は、終わりの日を預言する聖書の御言葉にもハッキリと書かれているのです。

先ずは新約聖書からテサロニケ人への第一の手紙5章2〜3節を引用します。

主の日は盗人が夜くるように来る。
人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。
そして、それからのがれることは決してできない。


次に、同じく新約聖書からマタイの福音書24章37〜39節をお読みください。

人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。
人の子の現れるのも、そのようであろう。


ご紹介した二つの御言葉は両方とも同じ時期について言及しています。


赤字で強調しておいた文を今一度よく考えてみましょう。


「主の日」とは、我々クリスチャンが信じているイエス・キリスト(人の子)が地上に再び天から戻って来るという、現在も続いている人類歴史の終わりの日です。


「ノアの時」とは、旧約聖書に登場するノアが大洪水の起こる前に生きていた時代のことで、様々なおぞましい暴虐に満ちた世界でした。


この時代の詳しい状況は聖書に書かれてはいませんが、ユダヤ文学で聖書の外典にあたるエノク書を読めば、人間だけではなく堕天使や巨人が、神の道を外れて地上で好き勝手跋扈していたことが窺い知れます。


そしてこの様な神に反抗的で暴虐に満ちた世界でも、人々は「平和だ無事だ」と言って食べたり、飲んだり、娶ったり、嫁ぎなどしていたのです(つまりは通常運転)。


そして、破滅的な滅び(大洪水)が突如として襲って来るまで、人々は誰も気が付かなかったのです(義人であるノアの家族8人以外の人類は全員滅びました)。


つまり、先にも述べた通り、マクロ的に見れば現在の世界は完全に神の道を踏み外し、堕落してしまった狂気の状態であるのに、ミクロ的に個々の生活へ目をやると、そこには通常運転の人々が何も変わらない日常を送っている姿があり、彼らは突然滅びることになっている自分の末路を、最後の最後まで気が付けないということになるのです。


ここまで聖書の終末預言と現在の状況が酷似していることが過去にあったでしょうか。


また、終末の前兆としては、偽預言者の登場(カルト教祖等)・戦争や戦争の噂・飢饉・大地震・疫病などがあり、これらはインターネットの登場によって世界中で起こっていることが誰でも確認できるようになりました。


この様な全世界的に繋がった時代は今までにありませんでした。


もちろん終わりの日がいつであるか、正確な日時までは分かりません。


ですが、この日は必ずやって来ます。


それは100年後であるかもしれないし、明日かもしれないのです。


前時代的なアタオカが、ノストラダムスの大予言のように適当な戯言を書いていると思われても構いません。


私は旧約聖書の預言が新約聖書において全て完璧に成就していることを見て戦慄を覚えました。


ですから、どんなに馬鹿にされ嘲笑されても、信じて書くことを止めないでいるのです。


とにかく「狂った世界と一見して平和そうに見える日常との対比」このギャップに、我々はもう少し違和感を感じなければなりません。


危機感と言ってもいいでしょう。


自由とは、いきなり奪われるものではありません。


誰にも悟られないよう徐々に外堀からこっそりと埋められていき、人々が気付いた頃には全てが手遅れになっています。


こんな話があります。


第二次世界大戦を経験した私の祖母が亡くなる前によく話していたのですが「つい昨日まで商店街でカルピスが買えたのに、戦争が始まったらいきなり何もかも買えなくなってしまった」と言っていました。


話が逸れてしまいましたが、日本人は今も昔も強力な「無関心の霊」「同調圧力の霊」に支配されています。


通常運転時は無関心で、有事の際は同調圧力を発揮します。


形としては最悪のパターンです。


この無関心の霊こそがあなたの日常を通常運転に見せかけているのです。


別にこの霊を過度に恐れる必要はありません。


ただ、目を覚ましてください。


あなたが通常運転のマトリックスから抜け出したからといって、映画のような荒廃したディストピアが待っているわけではありません。


先ずは自分で「この世界線とは決別する」と宣言し、別の世界線を生きればいいのです。


この別の世界線とは真の神にもっと依存する世界です。


恋人や配偶者に依存することは何だかマイナスなイメージがありますが、全知全能の神は我々人間から完全に依存されたいとさえ思ってくださっています。


聖書で神は御自分のことを「妬む神」と表現していますが、これは即ち「熱愛する神」とも言えます。


この神に「無関心の霊」ではなく、イエス・キリストを信じた者に与えられる「聖霊」を求めて祈ってください。


聖書はただの本ではなく、我々を日々新しくし、聖霊をもたらす霊的なガイドブックです。


終末を生きる術が書いてある聖書を読んで準備が整ったあなたは、終わりの日をむしろ待ち望むようになり、もう何があっても揺らぐことはありません。強くなります。


ですから同調圧力に屈することもなくなり、それを他人に強要することもなくなるのです(良い意味での無関心)。


ぜひ神の霊感によって書かれた聖書の御言葉が、常に心の中に在って在ることがあなたの「通常運転」となりますよう、イエス・キリストの命を生きる者としてお祈りいたします。


アーメン

 

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