以前のブログでもスピ系ニューエイジやヨガの危険性を書いてきましたが、今回は最近流行りのマインドフルネス(瞑想)の危険性について書いてみたいと思います。


最初に前置きしておくと、このブログではマインドフルネスに限った話ではなく、瞑想全般とヨガを含めた危険性について書いているという前提で読み進めていただければ幸いです。


マインドフルネスはGoogleやアメリカ軍が、仕事の高能率化やストレス軽減を目的として、組織内でのメンタルトレーニングに採用していることでも知られており、様々なスクールやスマホアプリが展開されていることから、近年ではその需要が非常に高まってきているようです。


アメリカではなんと日本円にして1200億円の市場規模があるそうです。


ここまでで二つの大きな矛盾にお気づきでしょうか?


それは、インドやスリランカの上座部仏教から輸入されたマインドフルネスを、軍隊が採用しているという点と、これをビジネスにして利益を上げようとしている者がいるという点です。


彼らは根本的な問題の解決からは目を逸らし、マインドフルネスの特徴である『判断しないこと』『集中力を高めること』『物事をありのままに見ること』だけにフォーカスしています。


私も陸上自衛隊に所属していたのでよく分かりますが、確かに軍隊はストレスの多い職場です。


武術でも呼吸法を重要視することから、その点でもマインドフルネスが軍人にも有効だったのでしょう。


しかし、極論を言えば軍隊は暴力装置であり、人殺しの技術を教える場でもあります。


ですから、このような場所でスピリチュアルの実践法の一つであるマインドフルネスを活用しようなどと考えることは酷く滑稽であり、その精神構造は健全であるとは言えません。


更に付け加えれば、スピリチュアルをビジネスにしている時点でそれは全て偽物です。


私の勝手な持論で申し訳ないのですが、これが最大の判断材料だと思ってください。


もちろん書籍を販売したり、セミナーやワークショップを開催することは、何も悪いことではありません。


それに、書籍を自費で出版することやセミナー等を開催する場所を借りることにも、最低限の費用がかかるでしょうから、金銭の授受を全否定するつもりはありません。


しかし、スピリチュアル(霊的な生活)は普通に家庭を持ちながら、仕事をしたり子育てをしたり、又は学校に行きながらでも十分に実践することが可能です。


大事なことなのでもう一度書いておきますが、金銭を要求しているスピリチュアルは、宗教も含めて全て100%インチキだと自信を持って断言します。忘れないでください。


ここで反論がある方は「でも、マインドフルネス(瞑想)は科学的にも効果が実証されている」と言うかもしれません。


しかし、UCL(ロンドン大学)を筆頭にドイツとスロベニアの三大学が行った合同調査で、二週間以上習慣的にマインドフルネスを実践している1232人を対象にした研究結果によれば、実に25%の被験者に何らかの副作用が出ているという報告がなされているのです。


しかも、ストレスホルモンであるコルチゾールの計測では、マインドフルネスを実践していても、この値が低下することはなかったという結果も出されています。


ということは、マインドフルネスは実践者の四分の一もの人に副作用を引き起こし、ストレスの軽減については全く寄与しない代物であることが証明されてしまったということになります。


さて、それではこの副作用とは一体何なのでしょうか?


これは「禅病」とも呼ばれており、所謂「魔境に入る」といった状態で、「クンダリーニ症候群」にも近いものです。


この副作用の主な症状を挙げておくと、


自律神経失調症・体温調節の不調・発熱・悪寒・心拍数の増加・高血圧・呼吸が苦しい・頭痛・急性または慢性の疲労・統合失調症的症状・幻覚・幻聴・うつ症状・神経症・離人症・情緒不安定・現実逃避・不意に来る幽体離脱のような感覚などなど、多岐にわたります。


また、マインドフルネスの特徴で説明すると、


『判断しないこと』では、これを続けると「共感力」「大切な感情」を失うことになる危険性があります。

例えば家族の誰かが職場や学校での人間関係の愚痴をあなたに聞いてもらい、少しでも気持ちを楽にしようと話しかけてきても、普段なら熱心に聞いて一緒になって怒ったり笑ったりできたことが、徐々に興味が持てなくなり、くだらない事だと言って冷たくあしらってしまうようになるかもしれません。


『集中力を高めること』では、普段では神経を使わないようなことに意識が勝手に集中して離れられなくなる危険性があります。
神経が過敏になり、いつもなら気にならない物音や自分の体の動きが気になりはじめ、集中が執着に変わる可能性があります。


『物事をありのままに見ること』では、善悪の判断や、自分と他人との境界が曖昧になる危険性があります。
スピ系ニューエイジではよくあることなのですが、罪や悲劇でさえも全てをあるがままに受け入れようとして自身を正当化し、自分を神と見なすようになってしまいます。
また、自己実現に対して手段を選ばないようになり、他者に対して高圧的になって、性的堕落に寛容になるといった傾向が見られることもあります。


次にこの副作用が起きるメカニズムについて考えていきます。


初期段階の軽い副作用については、慣れないことに対する肉体の反応が主なので、マインドフルネス自体を止めてしまえば改善することがほとんどですが、長く続けた人が陥る重篤な副作用は完全に悪霊の影響です。


「悪霊だなんて馬鹿馬鹿しい」と思うのは無理もありませんが、マインドフルネスはれっきとした霊的なアプローチです。


しかしここでは、霊的なアプローチではなく、逆に肉体の断食(ファスティング)を例に解説してみたいと思います。


あなたが誰の指導も受けずに自分で三日以上の断食をしたとします。


そして断食が終了した最初の食事で、ジャックフードと炭酸ジュースをお腹いっぱい食べたとします。どうなると思いますか?


実は肉体の状態は、断食をする前よりも確実に悪くなります。


デトックスされたクリーンでまっさらな身体に不純なものを大量に流し込めば、各内臓は暖機運転をしないままトップギアで働くことになり、未消化物で体調を崩し、ジャンクフードの毒素を余すことなく肉体が吸収してしまうことでしょう。


ですから最初は消化しやすい重湯やオーガニックなものを少量ずつ、慎重に摂取していかなければなりません。


マインドフルネス(瞑想)もこれと全く同じです。


瞑想が上達してくると、自分の心を空っぽにするために、目の前にある事象にだけ集中し、霊的な心の扉をフルオープンにした状態になります。


この状態はまるでスポンジのように、何もかも吸収しやすい身体(精神)になっているということです。


そしてほとんどの人は、瞑想が終わるとこの無防備な状態のままで普段の日常生活に戻っていきます。


見るもの、聞くものは全て食べ物と同じです。


もしも瞑想の後に俗悪でくだらないものを見たり聞いたりして、クリーンでまっさらな身体に不純なものを大量に流し込めば、我々の心は瞑想をする前よりもはるかに悪いものを吸収し、蓄積していってしまうのです。

新約聖書ルカの福音書11章24〜26節にはこう書かれています。

汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると、その家は掃除がしてある上、飾りつけがしてあった。
そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中に入り、そこに住み込む。
そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである。


瞑想後は自然豊かな俗世と隔絶された場所ヘ行き、隠遁生活でもしない限りは、残念ながらせっかく心を空っぽにしてスッキリしたとしても、自分の霊的な心の扉は開いたままなのですから、何でも受け入れてしまう非常に危うい無防備な状態であると言えるのです。


それではこの霊的な心の扉を無闇に開けないためにはどうしたらいいのでしょう?
また、この扉の開閉を自分で自由にコントロールするための方法はあるのでしょうか?


方法はあります。


先ずはキリスト教を含めた既存の全ての宗教とスピリチュアル、ニューエイジ、ヨガなどから完全に手を引いてください。


もちろん占いや芸能人(アイドル)、スポーツ選手、インフルエンサーの追っかけも止めましょう。

これは偶像崇拝を全て断ち切るということです。


最近では日本でもカトリック(イエズス会)の司祭が、教会でヴィパッサナー瞑想を取り入れているそうですが、彼らは聖書を読んでも悟ることができず、霊的な知識が乏しいまま、目新しい流行を偶像として取り入れています。
ここにもローマ・カトリックが神の戒めである十戒から偶像崇拝の禁止を勝手に削除した悪影響が出ているのです。

ここからもう少し詳しく説明する前に、一度人間の性質について考えてみます。


人が動物とは違う生物で、神の似姿として創造されたという決定的な証拠は、それぞれが特有の「言語」を持ち、その「言葉」を操っている点です。


この言葉がなければ人は深く思考することもできず、人類がここまでハイテクな文明社会を築くことはできなかったでしょう。


神はこの言葉によって「無から有」を創造し、人間はこの言葉によって「有から別の有」を創造してきました。


両者の間には絶対的な違いはあっても、創造は必ず「言葉」を介してでしか成され得ないのです。


一人でも家は建てられますが、大きなビルはどうでしょうか?

たくさんの職人さんと一緒に仕事をするのに、言葉無しで巨大建築物が期日通りに完成するでしょうか?


それでは「言葉」とは一体何なのでしょうか?


実は「言葉」「霊」そのものなのです。


日本人には言霊信仰がありますから、この点ではアドバンテージがあると思いますが、自己啓発や引き寄せの法則で言われているような、ポジティブな言葉であれば良いという考え方とは違います。

また、「霊」とは「幽霊」のようなものでもありません。


「霊」「命」です。


当たり前ですが、その証拠に人間は死ぬと「言葉」を語らなくなり、朽ち果てていきます。


それほど人間にとっての「言葉」とは、「命」と同等ともいえるほど一番大切なものなのです。


これを踏まえ、マインドフルネスの「瞑想」を考えてみましょう。


瞑想は言葉で思考することを止めてしまいます。


確かに人間は一日に6万回も思考すると言われており、情報過多の忙しい現代社会においては、脳を休めるために瞑想が有効的だと思われるかもしれません。


しかし、それは静かに「黙想」することで十分代用が利きますし、それよりも現代人が疎かにしがちな「睡眠」の質を上げて時間を確保することの方がよっぽど重要です。


何のために人生の三分の一が睡眠に割り当てられているのかをもう少し真剣に考えた方が身のためです。


最終的に瞑想は我々の「霊」である「言葉」を否定し、自分の中から追い出してしまいます。


「心」というものは、そもそも空っぽにする必要はなく、人間は元々、何事も反復練習を積み重ねて「集中」できるようになっていく過程で、とんでもない力を発揮できるように造られています。


また、瞑想によって霊的な心の扉が開かれると、そこに入ってくるのは悪霊だけになります。


なぜ悪霊だけになってしまうのでしょうか?


これは私のブログで何度も書いてきたことですが、人間はデフォルトでは「霊」が死んでいる状態で内側に存在し、何もしなければ外側の「肉体」(魂)だけで生きています。


ですから人間は、霊的には空っぽの状態といえます。


それに加え、この地上の主権は真の神にあるのですが、現在は一時的な支配権をサタン(悪魔)が握っており、あなた自身が正しいプロセスで霊的な心の扉を開き、神に向き直って「聖霊」を受け入れない限りは、空いている内側に住もうと寄ってくるのは悪霊だけになるのです。


アセンデットマスターとか高次の霊的存在なんてものはありません。

もっとシンプルに考えてください。


ではクリスチャンはどこが違うのでしょうか?


クリスチャンは聖霊を受け入れているので、悪霊がクリスチャンの内に住むことはありません。


しかし、油断をすると悪霊の影響をもろに受けます。


ですからクリスチャンは霊である「言葉」で武装して悪霊から身を守るのです。


新約聖書エペソ人への手紙6章11〜18節にこうあります。

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。
それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
また、救のかぶとをかぶり、御霊(聖霊)の剣、すなわち、神の「言葉」を取りなさい。
絶えず祈りと願いをし、どんな時でも御霊(聖霊)によって祈りそのために目をさまして倦むことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。


このように我々クリスチャンは、「聖霊」を受け入れてもなお油断して眠ることなく、神のあらゆる「言葉」で武装し、身を守っているのです。

聖書の言葉に力があることは、新約聖書ヨハネの福音書の冒頭にも書いてあります。

初めに言(言葉)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。
そしてこの命は人の光であった。
光は闇の中に輝いている。
そして、闇はこれに勝たなかった。


また、同じくヨハネの福音書4章24節にはこうも書いてあります。

神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。

即ち、これらをまとめると、「言葉」「神」であり、「神」「霊」であり、「霊」「言葉」なのです。


ですからこの神の言葉が集められた聖書は、紙の本でありながらただの本ではなく、「霊」そのものでもあるのです。

 

よく新約聖書マタイの福音書の冒頭で、イエス・キリストが四十日四十夜断食してサタン(悪魔)の試みを受けた場面を引き合いに出して「イエス・キリストも瞑想をしていた」とか、「だからイエス・キリストも魔境に入ったのだ」という陳腐なを見かけることがありますが、このような解釈は己の文章読解能力が貧弱なことを露呈してしまっているだけに過ぎません。

 

聖書をよく読んでください。

 

イエス・キリストはサタン(悪魔)を退けるために、全て旧約聖書の「言葉」を引用して反論しています。

 

これに対しサタン(悪魔)は、反論することができないまま、何もできずに彼を離れていきました。

 

イエス・キリストは同じくマタイの福音書17章21節で、

 

しかし、このたぐいは、祈りと断食とによらなければ、追い出すことはできない。

 

と言って、悪霊を追い出すためには「祈りと断食」が重要なのだと教えられているのです。


この重要な「言葉」自体を軽視し、排除する瞑想は、霊的な心の扉を不用意に開けてしまうことになるだけでなく、人間に創造の力である思考することを止めさせ、悪霊に対して無条件で武装解除していることになるのです。


瞑想の「瞑」という字を考えてみても、これは「暗くて見えない」とか「光がなくて見えない」という意味があります。


先ほど引用したヨハネの福音書の冒頭にもあったように、この言葉には命があり、人の光であったと書かれています。


瞑想は闇をもたらしますが、命である言葉は光であり、闇に打ち勝ち、闇は光に勝つことはないのです。


私は先にも瞑想は「黙想」で代用が利くと書きましたが、ただ黙想するのではなく、聖書にある神の言葉を覚えて黙想することが重要になってきます。


また、我々人間には瞑想ではなく「祈る」ことこそが最もパワーのある行為として与えられています。


私が引用した聖書の言葉にも御霊(聖霊)、即ちまことの言葉によって祈りなさい、礼拝しなさいと書いてあったはずです。


この祈ることを軽視し、疎かにしてはいけません。


人は自分の力が及ばないことを前にしてショックを受けると、瞬間的に思わず祈ってしまいます。

なぜでしょうか?


もちろんそれがどのような神仏かは分からなくても、何かに向かって「助けてください!」と無意識に祈ってしまうのは、人間には元々真の神に助けを求める意識が備わっており、潜在意識がそれを憶えているからなのです。


瞑想は求める気持ちを殺すことはできますが、瞑想自体が何かを創造して与えることはできません。


真の礼拝であれば、神は求める者に対し必ず応えられます。


ただし、自分の欲望のままに求めても、必要のないものは与えられません。


しかし、必要なものは驚くべきスピードと方法で与えられるのです。


瞑想やヨガはオカルトの延長です。


いきなり神や聖書の言葉を信じることができなくても、瞑想は「黙想」「祈り」に、ヨガはピラティス等の他の運動に切り替えて、日頃から「睡眠」の質を向上させつつ、霊的な心の扉を守りましょう。


瞑想は所詮「迷走」しか生まないことを忘れないでください。

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