我々はまだ、ある意味「患難」「恩寵」(恵み)の、両方の時代に生きることができます。

 

先に何が「患難」なのかと言えば、サタン(悪魔)が創り出した混沌の世界に「真理」が埋没してしまい、それを見出すことが困難な時代に突入しているということです。

 

今はまだ、ある程度の検閲が許す範囲内であれば、様々な情報を個人が自由に発信できる時代です。

 

これらの情報過多はまさに玉石混交であり、氾濫した情報の海は広大過ぎて、何が真実なのかを覆い隠してしまっています。

 

この様な坩堝(るつぼ)から本物の「真理」だけを拾い上げることなど、不可能なことのように思えてしまいます。

 

例えば、キリスト教とカトリック教という宗教には、数多の教会教派が存在し、それぞれ重要視する教義が違っています。

 

その中にはカトリック教の様な偶像崇拝を容認する異教から、独自の教義を基に据えた新興カルト教団まで、様々な組織が乱立しているのが現状です。

 

これでは未信徒や求道者はどこに足を運べば本物の「真理」を正しく学ぶ事ができるのか、大いに悩んでしまうところです。

 

しかも宗教という分野を見るだけでも、他に仏教やイスラム教、ヒンドゥー教などもあり、その種類と宗派は多岐にわたっています。

 

それでもまだ霊的な世界に興味を持つ人はマシな方で、現代社会では興味の尽きない様々な快楽(偶像)が巷に溢れており、日々の生活に忙しくしていればいるほど、霊的な飢え乾きを覚えることがない人の方が多いはずです。

 

むしろこちらの方が本当の「患難」の正体であると言えるでしょう。

 

この様な状況の中で、人類一人ひとりが唯一の神の下に一致するというのは、非常に困難なことであると言えます。

 

しかし、聖書は一貫してこの「一致」を求めています。

 

新約聖書エペソ人への手紙4章13節からを引用すると、

 

わたしたちすべての者が、神の子を信じる「信仰の一致」と彼を知る「知識の一致」とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

 

このように書いてあるからです。

 

この御言葉にある「信仰の一致」「知識の一致」は、サタン(悪魔)にとっては目の上のたんこぶであり、不愉快極まりない都合の悪い言葉です。

 

その証拠をご紹介します。

 

先ず、新約聖書の使徒行伝(使徒の働き)2章1節を口語訳・新改訳・新共同訳からそれぞれ引用いたしますので、比較してみてください。

 

口語訳:五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、

新改訳:五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

新共同訳:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

 

特に目立った違和感はないと思います。

 

それでは上記と同じ聖書箇所で、欽定訳(KJV)の機械翻訳とTR日本語訳からもそれぞれ引用いたしますので、今度は全ての訳を比較してみてください。

 

欽定訳:そして、ペンテコステの日が完全に来たとき、彼らは皆、一致して同じ場所に集まりました。

 

TR日本語訳:さて、ペンテコステの日が満ちたとき時、みなは同じ思いになって同じところにいた。

 

何か違和感を感じないでしょうか?

 

最初にご紹介した、日本で広く読まれている三つの翻訳の中には「一致」「同じ思い」といった単語が見当たらないのです。

 

英語だと「with one accord」→「一致団結」という言葉になります。

 

イエス・キリストがまだ昇天して間もない初代教会の時代には、キリストの弟子たちの間に確実な本物の一致団結がありました。

 

全員が同じ思い、同じ希望を持っていたのです。

 

本来は後の時代の教会も、この一致団結を正しく見習って反キリスト(悪)に抵抗するはずだったのですが、これを恐れたサタン(悪魔)の霊が教会へと入り込み、「分裂」を繰り返していくよう導かれてしまい、キリスト教は現在のような雑多な宗教に成り果ててしまったのです。

 

しかし一方では、新約聖書ルカの福音書12章51〜53節では、イエス・キリストがこのようにも語っています。

  

あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。

あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ「分裂」である。

というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう。

 

それでは「一致」「分裂」、我々は一体どちらを選べば正解なのでしょうか?

 

これはそれほど難しく考える必要はなく、単純に聖書から逸脱した教会教派からは「分裂」し、聖書に合致した「真理」を追い求める者同士で「一致」するということで良いと思います。

 

ただし、各々が到達している信仰の成長度合いが違うはずですから、それぞれの段階に応じた配慮は必要だと感じます。ですが、それとは別に、我々は極力「信仰の一致」「知識の一致」を厳しく求めていかなければなりません。

 

ここで注意が必要なのは、特にリベラル(自由主義神学)や異教であるカトリック教の間では、偽りのエキュメニカル運動の下、教会教派の壁を取り払い、お互いに一致していこうと、積極的に手を取り合い始めたことです。

 

また、ローマ・カトリックとこれに迎合したプロテスタント教会も、ローマ法皇を中心に仏教やイスラム教といった他の宗教にも一致していこうと、連携を強化しています。

 

彼ら(イエズス会)は、各国政府の要人にも強い影響力を持っているのです。

 

しかし、これは「一致」ではなく、真理を脇役にしてしまった「妥協」なのです。

この「妥協」からは断固として「分裂」していかなければなりません。

 

これは原理主義的な考え方だと危険視されるかもしれませんが、聖書を読めば読むほど、この聖書原理主義とも言える考えが、自分にも世界にも平和と愛しかもたらさないものだと確信することができるようになります。

 

この確信を得るために与えられているものが聖書であり、形骸化した教会にいる牧師や神父が語る神学のような、人の手が作り出した教えとは違うのです。

 

実は「真理」「福音」と呼ばれているものは、とてもシンプルなのですが、聖書は生涯をかけて研究する価値のある書物であり、残念ながらそこら辺のライトノベルのようにスラスラと読めるほど甘くはありません。

 

頭を抱えて悩むこともありますが、先ずは自分の力で読んでみましょう。

 

神様を信じてみてもいいかなぁと思えてきたら、神様にお祈りしながら聖書の理解を助けてもらいましょう。

 

私はこのブログの初めに、我々はまだ「患難」「恩寵」の、両方の時代に生きることができると書きましたが、聖書が普通に書店で購入できるだけでも「恩寵」の時代だと言えます。

 

未信徒や求道者のために、自分の時間を割いてまで聖書から真理を探し求め、要点をまとめた貴重な情報を発信してくださっている方々も多く存在します。

 

何よりも、これほどまでに世界中が狂った状態で神に反逆している時代にもかかわらず、神御自身がまだそのことを忍耐して地上に裁きを下さず、我々人間が神へ立ち返って癒やされるよう、長い間待ってくださっているのが「恩寵」そのものではないでしょうか?

 

ハレルヤ、主よ。

あなたの忍耐に感謝し、

イエス・キリストの御名によって賛美いたします。

アーメン

 

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