前回はモーセの生涯の中にイエス・キリストを見出しましたが、今回は旧約聖書のヨナ書に登場する「預言者ヨナ」に起こった出来事の中にイエス・キリストを探求していきたいと思います。


ヨナは紀元前8世紀、ヤロブアム2世が北イスラエルを治めていた時代の預言者です。


偶像崇拝を行うヤロブアム2世に、預言者ホセアとアモスは、このままでは神の御怒りによってイスラエルはアッシリア帝国に攻め滅ぼされてしまうと警告したのに対し、イスラエルは逆に領土を広げることができると預言したのがヨナです。


ヨナの預言は実際に成就しましたが、ホセアやアモスと違って神に反抗的な預言者だと言えます。


ちなみに列王記下14章25節にも登場します。


ヨナが神に反抗的な預言者であったといっても、どことなく憎めない彼は愛国者なのです。


敵国である異邦人の国、アッシリア帝国の首都ニネベに行き、悔い改めを叫んで回れという神の命令に逆らって船に乗り、ニネベとは明後日の方向へと逃げ出すからです。


アッシリア帝国が悔い改めて、偶像崇拝に勤しむイスラエルを滅ぼしに来れば、せっかく自分が預言したことが無に帰してしまうという打算的な考えも少しはあったことでしょう。


さて、そんな反抗的なヨナへ神が吹きつけられた大風によって、ヨナが乗っている船が難破しそうになったとき、水夫たちがヨナの勧め通り、彼自身を仕方なく海へと投げ込むと決めた際、彼らは何と言って祈ったでしょうか?


ヨナ書1章14節


主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。
また罪なき血を、われわれに帰しないでください。
主よ、これは御心に従って、なされた事だからです。

 

このように祈りました。


それでは、この出来事に対応した新約の時代へと場面を移します。


罪のないイエス・キリストが人類の罪を贖うために十字架へとかけられることは神の御心であり、イエスはその御心に従ったわけですが、十字架刑の前の裁判でイエスを殺したいと願っていた民衆が、ローマのユダヤ総督ピラトへ言い放った言葉を見てみましょう。


マタイの福音書27章25節


その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい。
 

お分かりでしょうか?


ヨナをやむなく殺そうとした水夫たちは、罪なき人の血の責任を負わせないでくれと願い求めたのに対し、イエスを本気で殺そうとした民衆は、罪なき人の血の責任を子孫の代まで受けると言っているところが対照的になっています。


ヨナを海へと投げ込んだ後、船を襲っていた嵐は収まり、水夫たちは助かって命を得ましたが、ユダヤ人は後に自分たちの国をローマ帝国に滅ぼされて失い、世界中に離散した挙げ句、酷い迫害を受け続け、多くの人が非業の死を遂げる歴史を歩むことになったのです。


これは歴史の裏舞台ですが、異邦人へともたらされた恵みをも予表しています。


人類はイエス・キリストを死(海)へと投げ込むことで、罪(神への反抗)によって世界(船)にもたらされた滅び(嵐)を免れ、その御業を信じた多くの異邦人(水夫たち)が救われて永遠の命を得るのです。


そしてヨナが海へ投げ込まれた後、大魚にのみ込まれてその腹の中で三日三晩を過ごし、無事に陸へと吐き出された出来事は、我々の罪の刑罰の身代わりとなってイエス・キリストが十字架へとかかり死んで葬られ、陰府(よみ)へと下り、三日の後に復活した贖罪の御業と見事にリンクしているのです。

マタイの福音書12章40節   


邪悪で不義な時代は、しるしを求める。
しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中(墓の中すなわち陰府)にいるであろう。


実際にヨナ書2章2節でもヨナは、


わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。

と言って、大魚の腹の中を陰府と表現していますね。


大魚の腹から陸地へと吐き出されたヨナは、今度はちゃんとニネベに行って、


「四十日を経たらニネベは滅びる」


と叫びながら歩いて回りました。


ヘブル語ではたった五文字の短い文章です。


しかし、ニネベの人々はこの言葉と神を信じ、王から家畜にいたるまで灰をかぶって断食し、様々な罪を悔い改めたのです。


こうしてニネベは神からの災いを免れ、四十日後も滅びることなく国として存続することができたのです。


さて、ここでまた新約の時代へと目を向け、今度はエルサレムの歴史を見てみたいと思います。


何といっても「40」という聖書的完全数がキーワードです。


先にも書きましたが、これは預言になっています。


四十日後も滅びることなく国として存続できたアッシリアの首都ニネベの人々は、神から遣わされた預言者であるヨナの言葉を受け入れて悔い改めました。


しかし、神の民として選ばれていたユダヤ人は、神が遣わされた救世主である神の御子、もちろん偉大な預言者でもあったイエス・キリストの言葉を受け入れるどころか、彼を十字架にかけて殺してしまったのです。


その結果、十字架の御業から40年後のA.D.70年、ユダヤ人の都市国家であるエルサレムはローマ帝国の攻囲戦によって陥落し、滅びてしまうことになるのです。


ちなみに少し脱線しますが、「歴史」は英語で「History」であり、これは「His story」すなわち、この地上世界の歴史は彼(イエス)の物語という意味です。


そして紀元前のB.C.は「Before Christ」(キリスト生誕前)、紀元のA.D.はラテン語で「Anno Domini」(主の年)という意味ですから、まさしく人類の歴史はイエス・キリストと彼の御言葉である聖書が中心に動いていると言っても過言ではないのです。

しかし、だからといって都合よく紀元前の終焉と共にイエス・キリストが生誕したという説は、考古学上でも信憑性がなく、現在はB.C.4年が生誕年として有力になっていることから、キリストの十字架の御業はA.D.30年の春のことであり、ローマ軍によるエルサレム陥落もその40年後でほぼ間違いないでしょう。


ですから新約聖書のマタイの福音書24章2節にある預言の成就と共に、この歴史上の出来事は眼を見張る様な驚くべき事件なのです。


この様な史実が、まさか旧約聖書のヨナ書という、一見するとまるでおとぎ話の様な短い書物から、連綿と繋がって預言されていたということは、少し信じ難いことではないでしょうか?


これが聖書の素晴らしい奥義なのです。


また、ヨナ書では自然界が神に従順なことが見て取れます。


神によって吹きつけられた大風によって海は嵐になり、魚はヨナをのみ込み、植物であるトウゴマは一夜にして生えて、虫はそのトウゴマを咬んで枯らしました。


もちろん新約聖書でも同じです。


イエス・キリストは嵐の湖を叱りつけて凪にされ、魚はペテロたちの網に自ら入り、実を付けていなかったイチジクは枯れてしまい、使徒行伝では主の御使いがヘロデ王を打ち、彼は虫に咬まれて死んでしまいます。


これが旧約聖書に登場する父なる神と、新約聖書に登場する御子なる神イエス・キリストの間には何の隔たりもなく、全知全能であって一つであるという証です。


本当にヨナ書は様々な神の御性質が凝縮された大変興味深い書物なのです。


さて、最後に今我々が生きている終末の現在を考えてみましょう。


ヨナ書では、アッシリア帝国の首都である大きな町ニネベは罪によって堕落していましたが、この町を滅ぼそうとした神は、町で暮らしている12万以上の人々を惜しんで預言者ヨナを遣わし、悔い改めたニネベは災いを免れました。


しかし、現在の日本はどの様な状況に陥っているでしょうか?


この二年間で国が本来想定している死亡率から超過した死亡者数は激増し、12万人を優に超えました。


2021年は、2011年に起こった東日本大震災の超過死亡である6万人を超えています。


この国は言わば、戦争をしているような状態なのです。


「それはコロナ禍だからしょうがない」と言い切れるでしょうか?


様々な原因を追求することは置いておいて、よく考えてみましょう。


神はニネベの町の12万以上の人々の命は惜しまれたのに、日本の12万以上の人々の命は惜しまれていないのでしょうか?


そんな事は決してありませんが、この事態を自ら招いているのは、罪を悔い改めることなく、創造の神の存在を知ろうともせず、天に背を向け続けている人間自身なのです。


自殺願望があるわけでもないのに、自ら死を求める様なことを、今の日本人は無意識的にしているということです。


人間には選択の自由が与えられているわけですから、自ら(ある意味喜んで)死を求めている人間の命をどうやって惜しめというのでしょうか?


また、ネット上には素晴らしい良心と行動力を持った正義の人たちがたくさんいます。


彼らは他人や家族にまで陰謀論者と罵られても、自分の時間を使って様々な情報を発信してくださいます。


コロナ騒動やマスク生活に疑問を呈し、ワクチンの危険性を訴えながら緊急事態条項や平和憲法の改悪にも反対して、これからやって来るステルス共産主義とAIによるデジタル監視社会やトランスヒューマニズムに警鐘を鳴らし、温暖化詐欺にも反発しています。


しかし、創造の神の存在を知ってイエス・キリストの十字架の御業を信じない限り、彼らは彼ら自身が忌み嫌う悪の権力者達と同じ扱いを神から受けることになるのです。


極論ですが、核兵器の発射ボタンを押すと決めた人の罪と、悔い改めて新生しなかった平凡な庶民(異教徒や無神論者)の罪は、神の目には同じに映り、死後には結局みんな一緒の場所へと送られることになるのです。


例えば、日本の無能な首相が、アメリカのネオコンから古くなった大量の兵器を高額で購入するために、北朝鮮からミサイルが飛んでくると恐怖を煽り、防衛費を増税によって賄うという狂った政策を厳しく糾弾していても、神の律法と戒めを知らず(守らず)、悪魔大感謝祭であるクリスマスを祝い、ハロウィンの馬鹿騒ぎに参加しているようでは、その無能な首相とやっていることはさほど変わらないということです。


日本人は再び自ら「進め一億火の玉だ」となって転げ落ちている最中にあるのです。


多くの人は、聞くには聞くが、聞く耳を持っていないので決して悟りません。


見るには見るが、見る目がないので決して認めようとしません。


頑なな心のまま、霊的な世界を完全に否定しているから、何が起こっても目の前のことに振り回されているだけで、永遠に一喜一憂することになります。


この様な人々の知識や知恵はハリボテで実に滑稽です。


自分たちが嫌いな為政者や支配者層に反発しながらせっせと彼らと共同して神に反逆し、同じ滅びを招きながらその原因が自分にもあるとは気が付かないまま、悪の権力者に必死に抵抗しているからです。


私が前回は旧約聖書の偉大な預言者モーセ、今回は預言者ヨナを題材にイエス・キリストを証してきたのは、聖書の預言の成就が正確なことと、人類を創造した唯一の神の存在を知ってもらい、逃れの道がイエス・キリストの十字架の御業にしかないのだと認識してもらうためです。


何度も書きますが、生きているうちにこの世から贖い出されて新生しなければ、あなた方の良心など、糞土の如きもので何の役にも立たないのです。


もう時間がありません。


今は終末の時代です。


いつこの世の終わりが来てもおかしくないのです。


それだけこの地上世界の悪が今までになく増大しており、天の神にまで血の叫びが届いているからです。


ニネベのようにこの日本が救われることはもうないでしょう。


しかし、今の時代はまだ恵みの時であって、十字架の血潮のおかげで大胆に神の御前に出て、神と個人的な関係を築くことができます。


教会や宗教指導者を間に通さなくてもいいのです。


むしろ誰かを頼ってはいけません。


また、宗教の様に地獄や悪魔(神々)を恐れよと言っているわけでもありません。


真の神の御性質を知ってください。


神を知ることが人間にとって一番大切な知識であり、知恵の始まりです。


人間が健やかに幸せに暮す方法を、人類を創造した唯一の神がハッキリと明示しているのにもかかわらず、誰もその内容を知らないままでいるのです。


これほどまでに愚かなことがあるでしょうか?


そうは言っても、間違いなく断言できますが、99.99%の人は無意識的にこの内容に反抗します。


普通の人は自分が神(聖霊)によって内側から変化することに全力で抵抗するよう、世に育てられてきているからです。


ここでハッとさせられた人は、まだ世から脱出する望みを持っているかもしれません。


急いで聖書を手に入れて読んでください。


読者の皆さんが唯一の救い主であられるイエス・キリストに出会えることを切にお祈りしています。
 

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