いちいち言わなくてもいいことなのですが、私はセンブンス・デイ・アドベンチスト(SDA)やSOSTVの信徒ではないことを最初に断っておきます。


カッコよく言えば聖書のみに立つ野生のクリスチャンですが、所詮野良ですから、自称クリスチャンということで結構です。


それでは、旧約聖書の創世記2章1〜3節を読んでみましょう。

こうして天と地と、その万象とが完成した。
神は「第七日」にその作業を終えられた。
すなわち、そのすべての作業を終って「第七日」に休まれた。
神はその「第七日」を祝福して、これを聖別された。
神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。


これは神が世界を創造した結果として、週の最終日である第七日目が安息日として聖別されたことを示しています。

 

神は休む必要のないお方であるのに、創造された世界に対して愛を示すために安息日を定め、わざわざお休みになられたのです。


カギカッコを付けているのでお気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、七が三回登場しています。これをよく覚えておいてください。


7は聖書的完全数の一つです。


旧約聖書が書かれたヘブル語では「神」「天」「地」という単語を文字からそれぞれ数値に換算して合計した数が「777」であり、また、新約聖書が書かれたギリシャ語では「十字架」という単語のゲマトリア(文字数値換算方)も「777」です。


これは「天」「地」を創造された「神」が、世界をアダムとエバに治めさせたところ、彼らが犯した罪によって神との関係性が壊れてしまった地上に、人の姿をとられた神である御子イエス・キリストがお生まれになってくださり、「十字架」の犠牲によって「天」「地」を再び繋げ、「神」との関係性を回復してくださったことを意味しています。


以上のことは漢字にも表されていることで、天「  ̄ 」と地「 _ 」を十字架「十」によって繋げた者こそが世界の真の「王」であり、王の頭に油注がれた救世主である王の中の王こそが「主」(アドナイ=Lord)、という文字になるのです。


ちなみにイエス・キリストの「イエス」という単語のギリシャ語でのゲマトリアは「888」であり、「七転び八起き」とは「十字架」で死んだ「イエス」が三日後に復活したことを思い起こさせる言葉なのです。


もちろん箴言24章16節にも有名な聖句がありますが、七転び八起きで想起される達磨大師も、インドに伝道しに行った十二使徒のトマスであった可能性が有力なのです。


聖書はこのように、人間が書いたものとは到底思えないほどの様々な奥義が詰まっていますが、聖書的完全数である7が三回も登場して聖別を強調された安息日の重要性を見落としてはいけません。


その前に、聖書全体の最初の書物である創世記2章の冒頭に登場した「777」に対し、聖書の最後の書物であるヨハネの黙示録13章18節に登場する「666」が、獣の数字であることに注目してみましょう。


これは余談になりますが「サタン」「ベリアル」「悪魔」「竜」「蛇」「試みる者」という単語のヘブル語、もしくはギリシャ語のゲマトリアは全て13の倍数であり、666を横に足していくと18にもなりますから、覚え易い聖書箇所です。


この聖書箇所の前後を読んでみると、最終的に獣の名の「刻印」を受ける者は火と硫黄とで苦しめられ、昼も夜も「休みを得られない」と書いてあります。


これはつまり、獣の刻印を受ける者は「安息を得られない」ということになります。


ここでは「刻印」という単語にも注目してみましょう。


刻印(Mark)とは別の言葉に置き換えると「しるし」(Sign)のことです。


刻印(Mark)は、人や物の内在的特徴を示すしるしのことになります。


獣=反キリスト(悪魔・サタン)側のしるしは内在しているものであり、目に見える物質的なものだとは限らないということです。


そして当然神の側にもしるしがあると考えられます。


聖書の最後の書物である黙示録にあった獣の数字が「666」なのであれば、聖書の最初の書物である創世記にあり、神が強調された数字は「777」、つまり週の最後である第七日目、安息日の遵守こそが神の民として聖別される「しるし」となっているのです。


この安息日は地上に罪が入り込む前から聖別され、存在していたものだということを忘れないでください。


安息日のしるし(Sign)は、刻印のような内在的特徴ではなく、人間が神に従うために示された「案内」であり、神が我々に安息を覚えるようにと導いておられることが分かります。


聖書には「しるし」という単語は無数に登場しますが、「安息日」「しるし」がセットになっている聖句は三箇所です。


御言葉を引用します。

あなたはイスラエルの人々に言いなさい、「あなたがたは必ずわたしの『安息日』を守らなければならない。
これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたる『しるし』であって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである」  

出エジプト記31:13

わたしはまた彼らに『安息日』を与えて、わたしと彼らとの間の『しるし』とした。
これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。  

エゼキエル書20:12

わが『安息日』を聖別せよ。
これはわたしとあなたがたとの間の『しるし』となって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。

エゼキエル書20:20

「聖」なるご性質を持つ神ご自身が安息日を「聖別」したと仰っているのです。


聖別された安息日を守ることは、万人祭司とされたクリスチャンも聖別されるということであり、それはさながら「歩く神殿」「時の聖所」を守ることにも等しくなるのです。

こんなことを書くと、必ず反論してくださる方がいますが、ワクチンやマイクロチップが獣の刻印だと騒いでいる陰謀論者は論外にしても、少しは根拠を挙げなければ無責任な発言だと思われてしまうでしょう。


よくある反論は、安息日の戒めは旧約のイスラエル民族に与えられたもので、現代のクリスチャンには適応されないというものです。


しかし、クリスチャンは野生種のオリーブとして霊的なイスラエル人となり、元の枝であるイスラエルに接ぎ木された者になったと、ローマ人への手紙11章にも書いてあります。


しかも安息日については天地創造の時点で定められているのに、その祝福がシナイ山でモーセに十戒として与えられるまで二千年以上も放置されていたなんてことはあり得ません。

ナンセンスです。


確実に安息日の祝福は人類全体に神の愛として与えられています。


さらに、十字架によって安息日が無効になったと言うのなら、なぜ使徒行伝の中で安息日という言葉が9回も登場し、ペテロやパウロなどのイエス様を信じる者たちが、安息日を守って会堂に集まったりしていたのでしょうか。


また、出エジプト記20章10節にはこうあります。

七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。
あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。


ここで神は奴隷や動物、異邦人までをも安息日においては「平等」に扱って休ませるようにと仰っていますが、なぜこれが現代になると主の日となって日曜日に取って代わり、クリスチャンだけのものとなっているのでしょうか?


神はイエス・キリストが地上に来るまでは安息日を平等に休む機会としてイスラエル民族に与え、十字架の御業が成された後の時代では、平等に休む機会を人類全体から奪ったということでしょうか?


そんな偏狭な神がいるでしょうか?


いいですか?現代において人間は、神が与えてくださった「平等」の機会すら守らず、人間の伝統と文化とやらを守って、何よりも大切な神の戒めを誰も守っていないということになるのです。

次に、出エジプト記31章16節には、

ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、「永遠の契約」として、代々安息日を守らなければならない。  

とありますが、私に「永遠の契約」『永遠』という言葉の意味を教えてください。


永遠を生きておられる神が、永遠と言っておられるのは、一体何時代から何時代までの何年間を指しているのでしょうか?


嘘偽りのない神が、一度「永遠」だと口にした「契約」(約束)を違えることがあるでしょうか?


律法の祭儀はイエス・キリストの十字架によって成就されましたが、十戒は現在でも有効です。


十戒はユダヤ人たちだけのためにあったのではなく、モーセに与えられる以前から、普遍の戒めとして人間のために存在し、神を信じる者の心に刻まれていました。


現代でもクリスチャンの胸に聖霊が刻んでくださる神の戒めは十戒です。


以下の聖句を読んで目を覚ましてください。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。
廃するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。
天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、全てが起こるまでは、決して過ぎ去ることはない。

マタイの福音書5:17〜18

ここでイエス様が仰る律法は確実に十戒のことです。


でなければクリスチャンは今でも動物の犠牲を捧げて割礼を受けなければならなくなります。


そうではありませんね。


ですから十戒は、この世界が終わるまで、現在でも有効なことが一目瞭然なのです。


そもそも十戒の他の九つは道徳的に受け入れられても、安息日だけは変更されたという謎理論は、サタンの会衆の常套句であり、旧約聖書の終末預言がもろに成就していることになるのです。

それではなぜ、現代の教会が安息日を軽視し、日曜日を主の日として礼拝してしまっているのでしょうか?


教会の歴史をざっと簡単に見ていきましょう。


ユダヤ教の新興異端として始まったキリスト教は当初、何の疑いもなく普通にユダヤ教と同じ安息日を当然のように守っていました。


時は西暦64年7月18日、ローマで大火災が起こりました。


ローマ皇帝であったネロはその責任を濡れ衣としてユダヤ人に着せようとしましたが、ネロの妻であったポッパエアがユダヤ教に改宗していたために、その白羽の矢はクリスチャンへと立ちました。


パウロもこの騒動に巻き込まれてしまいます。


大迫害にあったクリスチャンたちの中には、徐々に反ユダヤ思想が育まれていくことになります。


時は変わって2世紀。


ローマ皇帝ハドリアヌスは、ユダヤ人を厄介者扱いし、頭を悩ませていたため、ユダヤ教を非合法化して迫害し始めました。


その過程で、同じ安息日に集会をしていたクリスチャンもとばっちりを食らい、ユダヤ教徒同様に迫害されてしまいます。


クリスチャンたちはこの状況から逃れるために、集会をする日は日曜日にして難を逃れようと考えたのです。


しかし、これはあくまでユダヤ人と一線を画し、集会をする日を日曜日にずらしただけで、神の戒めである安息日を変更するまでには至っていませんでした。


4世紀に入り、ローマ皇帝コンスタンティヌスの時代に日曜遵守令が始まると、状況は変わってきます。


コンスタンティヌスはペイガニズムを信奉する太陽崇拝者です。


当時の通貨(コイン)には、彼の横顔の肖像と、一方には太陽神であるソル・インウィクトゥス(無敵の子)の肖像が彫ってあります。


コンスタンティヌスは「由緒ある太陽の日に休め」という法律を世界でも初めて勅令として出した反キリストの異教徒だったのです。


これには帝国を一つにしようと考えた政治的目的がありました。


バベルの塔やNWOなど、支配者の考えることはいつでも同じです。


もちろん当時のクリスチャンたちはこれに反発しましたが、宗教的権威を失う訳にはいかない教皇シルウェステルは、日曜日を「主の日」として休息する法律まで作ってしまったのです。


教父アウグスティヌスはこうも言っています。


「聖なる教会博士たちは、ユダヤ教の安息日の全ての栄光は、日曜日に移されることを命じた。
我々は古代人が安息日を守るよう命じられたように、主の日(日曜日)を守ろう」

 

こうして神の戒めである安息日は、人間の勝手な判断によって変更されてしまったのです。


多くのクリスチャンは「主の日」という言葉が新約聖書のヨハネの黙示録1章10節に登場すると鼻息を荒くしていますが、十二使徒であるヨハネがパトモス島で主の日として守っていたのは、常識的に考えて第七日目の安息日であるので、口にするのも恥ずかしいことです。

何度でも言いましょう、そんなことは常識です。


ここまで見せてもプロテスタント教会の信徒たちはこのような史実を受け入れられないことでしょう。


なぜなら、この安息日の変更は、マルティン・ルターの宗教改革より何百年も前から続けられてきたことであり、ローマ・カトリックにプロテスト(抗議)したルターでさえも、安息日を守らず、カトリックの伝統に疑問を持つことなく日曜日を主の日として礼拝を捧げていたからです。


現在のプロテスタント教会と多くの宗教指導者たちが目を覚まさないのも頷けます。

さて、今回も長くなってしまって大変申し訳ありませんが、ここからは今、現代で起きている話をしていきましょう。

『カトリックニュースエージェンシー』というニュースの記事を引用します。


これは現在のカトリック教の総本山であるローマ・カトリックの教皇フランシスコが、メディアに向けて実際に読み上げ、記事になった翻訳です。


聖書とかけ離れたトンデモ理論と、終末を感じさせる預言の成就を見ることができます。


解説は後ほどです。

「日曜日に安息せよ、という戒めはキリストの核心への招待であり、命への賛美と感謝を捧げるものである。
我々クリスチャンにとって主の日、日曜日は聖餐である。
それは感謝を意味し、神に感謝を述べるということである。
現代の生活の支配的な概念は、活動的な責任ではなく、逃避に重点を置いている。
自分を満足させる楽しみのためにお金を稼いでいる。
今までにないほど人は休息できておらず、今までにないほど人は虚無感を経験している。
この戒めによれば『休息とは一体なんであろうか?』と問う。
それは熟考の時間であり、賛美のひと時であり、逃避ではない。
中略

前の6日間を消去して気を紛らわせるのではなく、これこそカトリック信者が日曜日を過ごす方法だ」と語った。

いかがでしょうか?


言っていることは、さも立派に聞こえますが、まさに旧約聖書のダニエル書7章25節「時と律法とを変えようと望む」という預言がここに成就しているのです。


カトリック教内だけの話であればまだしも、「日曜日に安息せよ」という戒めがキリストの核心だと言い放ち、彼がクリスチャンという言葉を使用している時点で反キリスト確定です。


日曜日に安息するなんてことは聖書のどこをどう探しても、一切書いてありません。


人間が勝手に作り出した欺瞞もいいところなのです。

さらに彼らは宗教的指導者という立場を利用し、環境汚染によって疲弊した地球を休ませるために、積極的に日曜日を休みにしていこうというキャンペーンに乗り出しました。


これには「気候の日曜日」と題して、英国とアイルランドの700以上の教会が参加しています。


洗脳の一つである温暖化詐欺や、日本だけがとち狂ったように推進しているSDGsの陰に隠れて、神への反逆は誰にも気付かれないまま粛々と推し進められているのです。


さらに、昨今のパンデミック騒動にかこつけて、感染拡大を防ぐためにも、世界中で日曜日を休みにしていこうという声が上がり始めました。


あの教皇フランシスコは、人類とワクチンには友情の歴史があるとのたまい、「倫理的行為」として接種を呼びかけた人物です。


本当にどこまでも狂っています。


世界の要人にとてつもない影響力を持ち、国連でも演説したこのイエズス会出身の宗教指導者が、日曜日を平然と安息日だと言っているのです。


ローマ・カトリックから端を発した日曜休業令は、いつ発動されてもおかしくはない現状にまで来てしまっています。


この事実を知らないのは日本人くらいなものです。


そして何も知らない日本人は、何も考えずにワクチンやマスクに従ったように、日曜日は家族と過ごし、地球環境を休ませ、感染拡大を未然に防ぐ日として、喜んで従う日が来るでしょう。


そんなカトリック教徒は、なんと世界中に13億人以上もいるのです。


さらに魅力のないプロテスタント教会からは、カトリック教への改宗者がバンバン出ています。


安息日は週の終わりの日である土曜日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)だと、私一人が叫んで抗議したところで、蚊が飛ぶ羽音にもならないでしょう。


それでも私のもとには「お前には愛がない」「兄弟姉妹を裁くな」「カトリックも同じ兄弟姉妹だ」「お前の目の前には丸太がある」などという批判の声が届くのです。


聖書の権威はどこに行ってしまったのでしょうか?


毒麦は未信者ではなくクリスチャンのことを言っているのに、どうすればその教会から出てきてくれるのでしょうか?

 

イエス様も守られた安息日を、同じように守りたいと思うことは、主の御心にはかなっていませんか?

最後に旧約聖書からイザヤ書56章6〜7節を引用して終わります。

また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は、
わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈りの家のうちで楽しませる。
彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。
わが家はすべての民の祈りの家ととなえられるからである。

 

アーメン
 

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