売り言葉に買い言葉。

言葉がどんどんエスカレートし、収拾がつかなくなることは、
夫婦関係でも親子関係でも陥りがちな罠です。

今日はマルコの11章を読んでみたいと思います。


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一行はまたエルサレムに来た。
イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。
「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

イエスは言われた。
「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。
 そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

彼らは論じ合った。
「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」
彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。

そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。
すると、イエスは言われた。
「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

マルコによる福音書11:27-33
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イエスは相手を言葉だけで理解するようなことはしませんでした。
言葉の裏にある内面的なものも含めて相手を捉えました。

「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」
こうイエスに問い詰めてきた祭司長、律法学者、長老たちの心の中にあったものは何でしょう?

イエスはこの質問に即答しませんでした。

逆に、「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」
と質問し返しました。

この質問によってイエスは意地悪な敵を退けることに成功します。


言葉だけに反応し、まともにとりあうと相手の思うつぼにはまってしまうことがあります。


全体をよく見て、逆に的確な質問を投げかける精神的な余裕と鋭敏さを持ちたいものです。