2014年9月14日
中日春秋
 昨年亡くなった英元首相のサッチャーさんは、自分の人生を描いた映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を見なかったそうだ
▼サッチャーさんをメリル・ストリープさんが演じ、二度目のアカデミー主演女優賞に輝いている。女性政治家の光と影を公平に描いている印象があるが、本人は「そんな映画を見ること以上に酷(ひど)いことはないわ」と語っていたという
▼映画とはいえ、誰だって自分の人生について、第三者にとやかく分析されたくない。自分のことは自分が一番よく分かっている。思い出したくないこともある。歴史家に裁かれる公人、政治家といえども同じだろう
▼「昭和天皇実録」のある記述に目が留まる。昭和天皇は映画「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)をご覧になっていた。昭和四十二(一九六七)年十二月二十九日、吹上御所とある
▼終戦直前の政府と陸軍の混乱、暗闘を描いている。傑作とはいえ、血なまぐさい。当事者であれば、目を背けたくなる場面もあっただろう
▼あの映画の皇居近辺の撮影は無許可だ。内容からして「どうせ許可は下りないだろう」(岡本監督)と警察の厄介になることも覚悟し撮影を強行した。それを御所のスクリーンでご覧になったという「皮肉」と、人の心の複雑さを思う。なぜ、あの映画をご所望されたか。残念ながら「実録」の中にその記述はない。
2014年9月13日
中日春秋
 雪には、においがあるのだという。作家の佐伯一麦(かずみ)さんの連作短編集『光の闇』に、自ら全盲で盲学校の先生を務める男性が、それはどんなにおいかと尋ねられて、答える一幕がある
▼「これぞ雪、THE、雪だね。これしかないという、思わず吸い込んじゃうみたいな。雨のときのにおいとは、ちょっとまた違う。雨が降りだしたときには、少し埃(ほこり)っぽいにおいが上がってくるけど…」
▼目が見えない人々は音だけでなく、においにも敏感になると聞く。ある盲学校の校長先生によれば、生徒たちは声を聞かずとも、どの先生かが分かるそうだ。歩く音と歩幅、そしてにおい…
▼白い杖(つえ)をつき街を歩く時は何を目安に角を曲がり、どんな危険が潜むかを把握しておく。その際、飲食店などの特徴的なにおいも大切な手掛かりとなる。そうして頭の中に「メンタルマップ」と呼ぶ地図を描き、それを頼りに歩くのだという
▼埼玉の盲学校に通う女子生徒が通学途中、けがをした。白杖(はくじょう)に誰かがつまずく気配がした直後、蹴られた。「一人で歩くのが怖い」と、少女は言っているそうだ。きのう捜査に進展があったが、彼女のメンタルマップ、心の地図についた恐怖のにおいが消えてくれるといい
▼今回の事件に限らず白杖をつく人への心無い言動は後を絶たぬという。雑踏の中で目をつぶり、音とにおいだけの世界に身を置いてみる。
2014年9月12日
中日春秋
 「もうこの時は死ぬと思いましたから…」「ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだと思ったんです」「一番死に近かったのはここだった…死んでいましたね」
▼政府がきのう公開した福島第一原発事故をめぐる吉田昌郎元所長の調書。吉田さんの証言からにじみ出るのは「死」である。燃料棒は完全に露出しているのに、冷やす水は入らない、入れられない
▼「死ぬかと思った」という表現ではなく、吉田さんは「死ぬと思った」「死んでいた」と言い、「我々のイメージは東日本壊滅ですよ」とまで語っていた。その言葉遣いからは、死と破滅が本当に紙一重で存在していた現実が、三年半の時を隔てて迫ってくる
▼だが、それは過去の話ではない。原発事故による避難住民は、なお十二万人余。長引く避難生活などで命を落とした「原発関連死者」は、少なくとも千百人を超え、この半年で七十人も増えているという。原発事故による「死」は現在進行形の悲劇だ
▼調書で吉田さんは3号機の水素爆発のことも振り返っている。直後に四十人余が行方不明と聞き、事実なら「腹を切ろう」と思ったそうだが、幸い落命した人はいなかった
▼「がれきが吹っ飛んでくる中で、一人も死んでいない。私は仏様のおかげとしか思えないんです」。一流の技術者をしてそう言わしめる。それが、制御を失った原発の実相である。