中日春秋
2014年6月26日
 駅へ向かういつもの道。押しボタン式の信号で渡ろうとしたら、おばあさんがボタンに手を伸ばすところだった。だが、押す構えのまま、動きを止めている。けげんに思っていると、目の前を路線バスが通り過ぎていった
▼ようやく青信号になり横断歩道を渡り始めると、おばあさんがはにかんだような笑みを浮かべつつ、小さな声で話し掛けてきた。「待たせてごめんなさいね。いつもお世話になっているので」
▼おばあさんは横断歩道の近くまで来ていたバスを信号で止めないよう、通り過ぎるのを待ってボタンを押したのだ。自分がいつも頼る「足」への感謝を込めた、さりげない心遣いだった
▼鹿児島県で起きたJR九州の特急脱線事故で、運転士が無料通信アプリLINE(ライン)に現場の写真を投稿し、「死ぬかと思った」と書き込んでいたという。乗客の命を預かるプロの口から、何と軽い言葉が発せられることか
▼名古屋では市バス運転手のミスが後を絶たないそうだ。免許証を忘れたり、寝過ごしたり。そんな過ちがここ三カ月弱で二百件近くになるというから、気が気ではない
▼精密時計のごとき日本の公共交通網を動かす現場の苦労、ストレスは相当なものだろう。しかし、声に出さずとも感謝と信頼を寄せる人は無数にいる。「みんなの足」を担うすべての人たちに、あのおばあさんの笑顔を見せてあげたかった。
中日春秋
2014年6月25日
 声というのは、なかなか正直らしい。迫力ある演説で鳴らす小泉純一郎氏は首相就任直後に内閣支持率が八割という圧倒的な人気を誇っていたが、そのころ彼が演説する声の平均周波数は、二二〇ヘルツだったという
▼ところが、この周波数が徐々に下がって、政権末期には一〇五ヘルツくらいにまで落ちていたそうだ。支持率も半減していったのだから、声の変化は、実に雄弁である
▼声紋分析の第一人者・鈴木松美氏の著書『あの人の声はなぜ魅力的なのか』によると、周波数が落ちるのは声帯を強く振動させるだけの気力がなくなるからで、小泉氏に限らず歴代首相に当てはまる変化だという
▼一週間前には張りのある声で「早く結婚した方がいいんじゃないか」とやじを飛ばした東京都議の声の周波数も急落したに違いない。この議員は早々に声の主と疑われていたが、知らぬ存ぜぬ
▼おまけに問題のやじは辞職に値すると言っていたのに、いまは「初心に戻って(議会)正常化のために頑張らせていただきたい」。自民党もこの議員が会派を離れることで幕引きを図ろうというのだから、耳を疑う
▼やじで侮辱された女性都議が属する会派では、まだ声の主が名乗り出ていないやじの声紋分析をするそうだ。「言論の府」とされる議会で吟味せざるをえないのが、言論の中身ではなく声の周波数。どうにも調子外れに過ぎないか。
中日春秋
2014年6月24日
 米国人のスティーヴ・マハリッジ氏の身体には二人の男が同居しているようだったという。一人は良き父になりたいと願う男。そしてもう一人は、どす黒い怒りに燃える野獣のような男
▼機械加工の熟練工で家族のため身を粉にして働く男が、何かの拍子にスイッチが入ると、暴力的な怒りの衝動に自分を抑えきれなくなる。叱られてベッドにもぐり込んだ息子に、こんな言葉を吐く。「おまえを殺すこともできるんだぞ」
▼この激情の正体は何か。スティーヴ氏の息子で作家のデールさんは父の死後、戦場で撮られた写真などを手掛かりに謎解きの旅に出る。戦友を訪ね証言を集めていく
▼そうして書いた『日本兵を殺した父』(原書房)が描くのは、凄惨(せいさん)な沖縄戦で正気を失っていく米兵の姿だ。ある兵は話す。「今日五人殺したら、明日はもっとやれるかもしれない。俺はだんだん楽しくなってきた。しかも即死させるんじゃなくて腹を撃つ。苦しみながら死んでいくようにな。…けだものみたいな毎日を送っていたら、やることもけだものになる」
▼心に入った野獣は戦争が終わっても決して出て行かなかった。生涯苦しみ、自ら命を絶つ人もいた。沖縄戦は六十九年前のきのう終結したとされるが、その苦しみが終わったわけではない
▼政治家は戦争を始めることができるが、戦争を本当に終わらせることはできないのだ。