2014年8月30日
中日春秋
 今から百五十年余前にベルギーで生まれたレオ・ベークランド博士は子どものころ、海の男になることを夢見ていた。だが別の冒険が彼の心をとらえた。自然科学なかでも化学の世界が彼の知的冒険の海となった
▼博士は、世界を変える発明をする。一九一〇年に彼は自らつくり出したベークライトの製造に乗り出し、合成樹脂の生産の扉を開けた。「プラスチックの父」と呼ばれるゆえんだ
▼巨富を得たベークランド博士はヨットでの航海を楽しみ、「海の男になる」という少年の日の夢もかなえた。しかしプラスチックが、愛する海をその奥底まで汚していると知ったら、どんな顔をするだろうか
▼海に流れ出たプラスチックは、紫外線などの作用で小さな小さな粒になる。この粒は有害な化学物質を吸い取る性質があるという。そんな粒が何十年も漂い続ける。それが集まって、まるで「プラスチックのスープ」のようになってしまった海域もあるという
▼汚染は深海にも及んでいる。国内の水族館が、「海の掃除屋」と呼ばれるダイオウグソクムシを調べたところ、その胃から化学繊維などが相次いで見つかったそうだ
▼「プラスチックのスープ」を小さな魚が飲み、その魚を大きな魚が食べる。それが捕られ加工されて、プラスチック製品できれいに包装されて店先に並ぶ。したくもないが、しなくてはならない想像だ。
2014年8月29日
中日春秋
 「あの人の目が好き」とは、歯の浮くようなのろけの文句だが、人と犬がこれほどまでに親密な絆を結ぶに至った秘密は、お互いの目にあるかもしれぬという
▼動物行動学者の菊水健史(きくすいたけふみ)さんらの『犬のココロをよむ』(岩波書店)によれば、そもそも黒目と白目がくっきりした哺乳類は、人や犬などごく限られているそうだ。なぜ、そんな目を持っているのか
▼白目があるから黒目の動き、視線の向く先がよく分かる。集団での狩りでは、これが大事だ。お互いの目を見ることで微妙に動きを調整し、高度な連携ができる。人と犬はまさに、「口ほどにものを言う」目を共有している仲間なのだ
▼優秀な見張り役で猟師でもある犬と共生したために、人類は夜ぐっすり眠れるようになり、狩りの効率も上がった。おかげで人類繁栄の道が開かれたという説まであるそうだ
▼そんな人類の友人を襲った出来事に絶句した。埼玉県で先月、全盲の男性を助け歩いていた盲導犬のオスカー君が何者かに腰の辺りを刺され、血を流していたという。盲導犬はパートナーに危険が迫った時以外は、無駄に声を出さないよう訓練されている。だから、オスカー君も黙って男性を導き続けたそうだ
▼オスカー君は犯人を見たのだろう。人と心を交わすのが得意なその目は、その時何を言ったのか。犯人はきっとその無言の声を聞いているはずだが。
2014年8月28日
中日春秋
 おととい八十歳で急逝した俳優の米倉斉加年(まさかね)さんは、三十一歳の時、劇団民芸の公演で、宇野重吉さんの相手役に抜てきされた。稽古は熾烈(しれつ)を極めた。宇野さんからのダメ出しの連続で追い詰められ、降板も考えた
▼初日を間近に控えた休みの日、宇野さんから「二人だけで稽古を」と呼び出された。稽古が終わり、その録画を見た宇野さんはつぶやいた。「もう少しできているかと思っていたが、できていない…俺は中途半端な役者だな…」
▼その宇野さんから教えられたのは、伝えよう、うまく見せようではなく、自然と伝わることの大切さ。自分の存在そのもので伝えることの厳しさだったそうだ
▼米倉さんが三十年余前に書いた『おとなになれなかった弟たちに…』も、何かを伝えようとして作った絵本ではないという。十歳のころの自分と向き合わずにいられなかった。書かずにはいられなかった。そういう本だ
▼戦争末期に生まれた米倉さんの弟さんに、お母さんは満足に乳もやれなかった。配給のミルクが命の綱。だが、そのミルクを米倉さんは、ひもじさのあまり盗み飲みしてしまう。弟はやがて静かに息を引き取った。栄養失調だった
▼『おとなに…』は、世代を超え読み継がれる本となった。「僕は、種を蒔(ま)いただけ。受け取った側が育て、僕も知らない花を咲かせてくれた」と、米倉さんは語っていたそうだ。