日本に行く前、恐らく国際結婚した人なら必ず挙げる注意事項を私もスーさんに申し立てていた。
ひとーつ、玄関上がる前に靴を脱ぐこと
ひとーつ、風呂桶に浸かる前に体を洗うこと
ひとーつ、タクシーのドアを自分で開け閉めしないこと
その中でも特に靴を脱ぐことに私は神経を尖らしていた。
スーさんも立派な大人。まさかドカドカ靴のまま上がることはあるまい。私が言っているのはそこではない。靴下である。
私が彼の靴下をたたむ度に悲しい気持ちになっているのを彼は知っているのだろうか。なんですか、このメッシュなつま先は。出来ることならこのままゴミ箱へ投げ込んでしまいたい。だが洗ってしまったからにはあと一回は履いてもらおう。そんな魔のスパイラルが永遠と続く。パンツの穴も「換気口」と言い張ってはき続けるしみったれ、いや、しっかり者。
靴社会のイギリスならそれでも良かろう。ただし日本ではいつ靴を脱ぐか予測がつかない。
「履き捨て用にボロ靴下を持っていくのは構わないけどほんと注意してよね」
「イエスボス」
下ろしたての靴下も一緒に詰めているのを見てこれ以上口うるさくすることはしなかった。
さてところ変わって日本。ホテルでの滞在を無事終え、我々は温泉旅館へ向かった。
着物姿の仲居さんや畳に布団。刺身やてんぷらの夕食といったザ・日本的な雰囲気にスーさんはすっかり心躍っていた。夕食後は座布団を枕にゴロ寝も体験。ヨダレのしみまで作るこだわりようだ。
靴ですか?ほらちゃんと玄関で揃えて脱いでいますよ。靴下だってノープロブレム。裸足です!ここまでの自分の出来に大満足のスーさん。
「ひとっ風呂浴びてくらぁ」
タオル片手に意気揚々、露天風呂へ行こうとしたところで教官(私)から待ったがかかった。
「おい君!そう、そこのXXLの浴衣を着ている君のことだよ。ちょっと待ちたまえ!」
「なんだよー」
「自分の足元を良く見たまえ!まったくけしからん!」
足元を見るスーさん。そこには男と女のシルエット。そしてTOILETの文字。
「駄目じゃないか。トイレスリッパはトイレで。これ常識だよ、ワトソン君。こっちに来てはいかん!」
「いっけねー!!」
慌てふためきトイレへ戻るスーさん。館内用のスリッパに履き替え展望風呂へと向かっていった。
やれやれ、危ないところだった。それじゃ私は冷えたビールでもいただこうかね、などと思った瞬間、一筋の不安が頭をよぎった。
スーさん、「男」と「女」の暖簾の字、読めたっけ?
あわてふためき屋上の展望風呂へ。遅い時間のためか人の気配がない。これ幸いに「男」と書かれた暖簾越しに下駄箱をこっそり調べる。無い!スリッパがひとつも無い!!いつ女の悲鳴が上がるかとびくびくしながら女風呂へ。スリッパは3組。思い切って脱衣所に入ると、、、、よ、良かったー。女の人が3人。一人はヘビメタ張りに頭を振りつつドライヤーをご使用中だ。
??? ってことはあの人は一体どこへ消えたんだ???
あーもうええわい。その時はその時だ。他の風呂場を回る気力はもう無い。フロントからの内線電話におびえつつビールを飲んでいるところへピンクに頬を染めたスーさんが戻ってきた。
「いやー。いいお湯でした。星も綺麗だったよー!」
「ど、どこ行ってたのよ!!!」
「え?だから露天風呂って・・・」
「男?女?え???どっちよ!!!」
「男に決まってるだろ!!」
「証拠は?」
「なんだそれ。最初は僕一人だったけどその後お父さんと息子の二人づれが入ってきたよ」
「じゃあ、なんでスリッパがなかったのさ」
私は今までの顛末を話した。ガラリと態度が変わったフロントさんや仲居さん。地元のお巡りさんに浴衣のまま(もちろん裸足)連れられていく夫。そこまで想像したという事も。
ひとしきり笑ったあとスーさんは言った。
「僕無くしちゃいけないと思って脱衣カゴに入れてた」