気になる木が、幼いころからたくさんあった。


子供のころ、日本国外の物事に興味を持つキッカケとして、私には図鑑や絵本が大きな意味を持ったけど、それと同じくらい、テレビ番組の影響も大きかった。


分類するなら紀行番組とか言えばいいんだろうか。世界遺産になっているような有名スポットに行ったり、食べ物や芸術などといったその土地の文化に光を当てたり、とにかく、世界にはワクワクすること、面白いものがたくさんあるという視座から、観る人の好奇心や冒険心をくすぐる番組が好きだった。


小学生の頃などは地元に友だちと表現し得る子どもたちもまあまあいたし、彼らが興じているようなテレビゲーム、スポーツなどの遊びもそれなりに好きだったはずだが、家でテレビや書物を通して、観念としての世界、行ったことはないけど、どうやらあるらしい、ここではないどこかに思いを馳せる時間も好きだった。


心のどこかでは既に、日常に退屈していたのかも知れない。だからこそ、書物やテレビがもたらしてくれるたくさんの「気になる」に胸を躍らせていた。


そんなワクワクの供給源の一つだった、気になる木で幕を閉じる番組は土曜の夜にやっていた。スポーツ漬けの子供に日曜などなくて、明日は朝からグラウンドで練習だなと、好きな事のはずなのにどこか重い気持ちにもなりながら、すがるように画面の中の世界のふしぎを見つめていた。


気になる木、という言葉は、ソーシャルメディア等が日本語圏にも普及してから、何か不思議なことや分からないことに言及する際に、「気になる」と殆ど同じ意味で使われるのを見るようになった。


引用元は、私のように平成から令和にかけて日本にいたり、あるいはその時代の日本の地上波テレビを人並みに観ていた人であればだいたい分かる。


英語圏ではa bridge too farという表現が、同名のノンフィクション作品のヒットにより、無謀な行為や困難な事柄を意味して使用されるようになったらしいが、そんな感じで、反響を呼んだり人気を博した文化から言葉が引用されるのはよくあることだろう。


そんな、たくさんの「気になる木」の種子を私の心に植え付けてくれた地上波テレビの番組も、最近ではあまり観なくなっていた。


娯楽やメディアが多様化してテレビの持つパイが、世の中でも、何より自分にとっても小さくなったし、大人になって働いて、本を買ったりできるようになったのも大きい。ワクワクの供給源も多様化したのだ。


そんな輩が、終わることになったら急に悲しいとか寂しいとか言うのは都合が良すぎるだろう。だって、土曜夜に世界のふしぎを探す旅がレギュラー放送を終えるのは、あとでTVerで観ればいっか、とか思って結局は観なかったりする私のせいなのだから。


それでも、気になる木が蒔いた種は、私たちの中で育ち続けている。あの番組を観てワクワクした子どもたちが、その後エジプトを旅行したり、スペイン文化を学んだりしているのだろう。彼らが大人になって、それぞれの場所で誰かの心にワクワクの種を蒔いているに違いない。誰かが種を蒔いてくれたら、あとは自分で水をやって育てるのだ。


今日も世界の片隅で、世界にワクワクしている。