邦訳を読み終えて内容がだいたい頭に入っている文学作品を外国語でも読んでみる。好きな物語で言葉を勉強するとますます楽しい。


例えば、


グエン・ニャット・アインの

『草原に黄色い花を見つける』(ベトナム語)


邦訳が出ている現代ベトナム文学のベストセラーで、ベトナム語オリジナルは数年前に新宿の洋書店で購入した。表紙のデザインや題字もなんだか味があって、手にとって読んでみたくなる魅力的なペーパーバックだ。


先に読み終えている邦訳も参照しながら単語集や文法書を開いてベトナム語文をじっくり味わってみる。


この物語は冒頭からしばらく手に関する話が続く。ニュース記事ではそう多く目にしない身体部位に関する語彙が多く登場するのはたくさんの小説に共通する魅力だ。


それから、アルバニアの作家イスマイル・カダレの

『草原の神々の黄昏』(英語訳)


これはアルバニア語からフランス語へ、フランス語から英語へ訳された、いわゆる重訳で、邦訳の底本もやはり仏語版である。カダレが旧ソ連時代のモスクワに留学していた時のことを題材にしている。


ベトナム語に関しては、単語の意味さえ引けば統語関係はつかめるし、英語だと参考書にたよる頻度はグッと下がる。


問題は他の言語だ。


カフカの『変身』


サン=テグジュペリの

『人間の土地』『星の王子さま』


なども上記のように楽しんでいるのだけど、ドイツ語やフランス語となると、おいお前、そんなんで読書なんてまだ早いだろうとツッコミが入りそうなほどに理解度が低い。でも、楽しい。というか、分からないからこそ、ときに英語やベトナム語以上に楽しいのだ。辞書や語学書を開いて、邦訳文も改めてよく読んで、ようやく文型が分かってくる。


言語は数式やパズルではない。意味や品詞を調べることは問題を解く行為ではないし、それだけで分かった気になってはいけない。品詞の分類や文法項目といった概念は言語を理解する上で、あくまで参考にするにとどめるべき要素だ。逆に過信さえしなければ、言語学徒らの努力と好奇心が築き上げた膨大な用語や概念は、未知の言葉に近づくためのヒントや助けになってくれる優秀なレンズになる。


とくにここで話題にしたドイツ語とフランス語などは、学ぶ上で英語学習、英語学、言語学などの経験、知識がかなり活きる分野であることは間違いない。もちろん、限界はあるけれど。何より重要なのは日本での研究の歴史と伝統があり、翻訳文学や辞書や参考書が豊富にあることだ。


未知の文化にアクセスする方法は色々ある。もちろん、旅行をして現地を体験するのは素晴らしい経験だろう。それと同じくらい、読書という方法も魅力的である。それに書物というのは時間や空間にとらわれない。


北関東の実家で読んでも、イギリスで読んでも(行ったことないけど)、『高慢と偏見』はあの格調高い書き出しで始まる。


東京のファミレスで読んでも、サン=ジェルマン==プレのカフェで読んでも(行ったことないけど)、『嘔吐』はなんだかよく分からない。いや、あれが分かる"実存主義者"もいるんだろうけど、私はよく分からなかった。


言葉も文化も、未知の世界はどこまでも分からないことだらけだ。それが少しずつ分かったり、分からなかったり、分かるような気がしたり、やっぱり全然分からなかったり、そんなのが楽しくて私は本を開く。