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畑ヶ谷東砦は県道38号を高天神城の追手口入口からさらに南下した左側に現れる、こんもり高い山の中にある。県道と反対側の麓に素我神社があり、目印になる。

高天神城を包囲するために築かれた砦らしく、この山には「陣場山」という名が残るとか。天正八年(1580年)3月には徳川勢と武田勢がこの近くで衝突し、徳川方の本多忠勝麾下の日置小左衛門が戦死し、かれを弔うのに牛頭天王を祀ったことからこの辺りを「天王馬場」と呼ぶようになったとか。

 

三河の端っこから戻ってきた三連休最終日、高天神の付城をいくつか回って帰ることにし、最初にここを訪問した。駐車場無いのが分かっていたので高天神城の追手口に駐車し、徒歩で訪問した。

 

現在位置(Googleマップで)

砦は、県道38号のすぐ脇にある。

見た目ですぐにそれと分かる、こんもり盛り上がった山がそれ。

 

麓の素我神社の沿革は、なんと平安時代の応徳年間に遡るという。

砦よりずっと先輩😨

 

さて、素我神社の社殿裏はガケのような急斜面で、とても登れない。

そこで、北の方へ回り込むと、北に派生する尾根から登ってゆくらしい道が現れる。

 

この道は砦のある山頂の北側を西に抜けてゆくだけだが、その途中で城域を突っ切るので左右に遺構が見られる。

まずは、右側。

下ってゆく尾根の中に何となく段のようのものが見える…

 

この段は細かいうえに大分均されているような感じで遺構かどうかは分からん…

しかし、ひとしきり下った先が土壇のように盛り上がっている。

 

土壇の上は、アパート一室ぐらいのスペースがあった。

いまは樹林におおわれて展望はないが、城域では北に突き出したところでもあり、往時はここから砦の足元を見張っていたかも。

 

周囲の斜面は、さすがに加工したような感じではなかった。

それでも、麓からの取り付き数メートルは急傾斜になっている。

 

しかも、裾に堀みたいのも見えるし😮

 

この向こう側はコンクリで固められていて、しかも後補で土を盛ったような感じなので、もともと堀ではなかっただろう。

底がぬかるんでいるところを見ると、このあたりの周囲が今のイメージとは違って湿地帯で進軍困難だったのだろうか…?

 

さて、つづいて道より南側じゃ💨

こちら側に砦の主郭がある。

歩いて登るにはキツい傾斜だが、踏跡があちこち入ってる…😨

 

もう少しで登りきる、というところから。

ここまで、遺構らしいものは全く無い。

 

そして虎口も土塁も何もないまま…

否、主郭の一段下に玄関みたいな空間があった。

 

そして、主郭へ。

バドミントンコートぐらいの広さか。やや南北に長い。

 

天端を削平しただけだったらしく、周囲の山の斜面は何とか登降出来そうなぐらいの傾斜だった…

 

ここは、南東と南西に小曲輪がくっついている。

南東には、主郭から小尾根が伸びているようで、その付け根に曲輪らしいものがあった。

六畳一間ぐらいの小さなもの。

 

その先も階段状になっているように見えたが、ヤブもひどそうだし先も短いので、俯瞰するだけで終わり😅

 

さて、南西の方は県道に向かって急傾斜で落ちているが、ここにも同じような平場があった。

 

下は数メートル、ガケのような急斜面だが…

 

曲輪、あるな…💦

 

見てしまったら降りずにいられない、悲しい性😂

木の根の下が抉れているような、おっかない斜面を何とか降りて、曲輪に到達した。

崩れてきた土に半ば埋もれてるな…

 

まぁ小山一つを占めているだけの砦で、これ以上に遺構は無いだろう。

星川砦や畑ヶ谷砦などに比べれば離れているとは言え、高天神城の追手口からは1kmほどの距離であり、今の道が往時もあったとすると追手口からの突撃を真正面に受ける、相当に厳しい立地だったと思われる。じっさい本多忠勝の配下をひとり戦死させるような激戦があったようだし…

それにしても高天神城、その最期はこんな砦もどうすることも出来ないほど追い詰められていたか…😢 

 

★畑ヶ谷東砦

静岡県掛川市下土方

近くに車を停める場所無し。高天神城追手口からでも徒歩15分ほどなのでそちらが無難。

山城

 

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(2025年2月3日 記)