水久保城はJR只見駅チカの要害山山頂にあった。要害山は『只見四名山』のひとつに数えられていて毎年初夏に山開きも行われるとか。
只見川の少し下流の会津横田ちかくに本拠を置いていた山ノ内氏の城だった。戦国時代には南の方の河原田氏などとともに蘆名氏にしたがっていたが、伊達政宗が蘆名氏を駆逐すると残された山ノ内氏は徹底抗戦し、本拠地の横田中丸城にて伊達軍の攻勢を一旦は退けた後、新たな侵攻に備えて水久保城に移った。城には越後の上杉景勝から援軍や物資などが送り込まれたという。このあと伊達勢は矛先を変えて河原田氏の持つ梁取城や河原崎城(和泉田城)に攻め込んだ。
その後間もなく、豊臣秀吉秀吉の奥州仕置によって山ノ内氏勝は所領を没収され越後に移った。会津は蒲生氏郷に与えられたが、水久保城がどうなったかはよく分かっていないらしい。
只見駅前から登山コースが通じているほか、只見高校裏(→Googleマップで表示)から西只見テレビ塔線なる舗装された道路を利用して車で登ることも出来る(但し山上の駐車や転回出来るスペースはごく狭い)。
今回は城攻めが目的なので、時間短縮のため車で大手口まで登る😅
落葉が積もったコンクリ舗装が終わった先は、幅広の土橋のような道が続いている。
ここが大手口で、山に取り付く手前で少し広くなっている。
その左側には、曲輪らしい平場が広がっている。
紅葉の下の濃厚なヤブで、あんまり見えないけど…

その先で最後の登りに取り付き、つづら折れで登ってゆく。
道幅はここまでとあまり変わらないが、急曲線急勾配が続くようになり路面も荒れ放題なので、小型のオフロード車でもなければ突っ込めないだろう。
けっこうしつこく続くつづら折れで尾根を登ってゆく。
登りが緩やかになってきた、これが北端の城塁かな…?
この先のカーブを曲がると…
明らかに、今までと様子が違う😨
掘割のようなところを少し登ると、右側にハッキリとした段。
この上に西曲輪がある。
少し行くと、中で分岐しているように見える虎口状😮
…となると、道を挟んで反対側に広がるクマザサのヤブは、北曲輪だな。
道を先に進むと南曲輪があって、南端に虎口があるらしいので、まずは南へ進むか。
北曲輪が終わると道の左側はかなり低くなり、そこには帯曲輪らしい平場が横たわっている。
南側が高くなって道から踏み込めるようなので、そこから回り込んで降りられるかと思ったが、周囲がどこも急傾斜💦
カーブする土の斜面がなかなかの迫力✨
それだけ上から味わっておくか…
道の終端には電波塔。
南曲輪へと道は繋がっている。
行く手にも関連の施設がある。
この施設の裏側に、要害山山頂の標柱が立っている。
三角点は無い。
この山へはJR只見駅前から登ってくる登山道もあって、この標柱の近くに登ってくるが、最後がトラロープの設えられた急登で、かなりキツそうだ💦
しかし、ハイカーはいた😆
その南の端っこ。
ごく小さいが、虎口らしいものがある。
近づいてみると、少しだけ掘られた道がS字カーブを描きつつ下っている。
正面左手は曲輪が突き出すようになっていて、下から登ってくる寄せ手を迎撃できるようになっているようだ。

少し下って振り返ると、すぐ下が数人入れる狭い平場になっている。
ここから下る道は、虎口左側の突き出しから視線方向に一直線に下っていて、一列縦隊にさせた寄せ手を上から攻撃出来るようになっているらしい。
降りてから振り返ると、正面に南曲輪がドッカリ😨
その下には、何となく枡形のようにも見える方形の空間…
西側は急斜面で落ちているだけだが、東側はちゃんと土塁のような尾根で仕切られている。
ってか、尾根の向こう側はほぼ垂直の土壁で、怖い🥶
ここから下は、尾根の西側2メートルぐらい下を登らせている。
この空間の上は急傾斜の尾根が登っているだけで守備兵の立つ空間が無さそう。
それでも、弓矢を使えば上から攻撃は出来そう。
さて、最後は本曲輪へ。
南端に枡形虎口があると言うので行ってみるが…
クマザサに埋もれてるやんけ😮
それでも入ってみると、土塁に囲まれて切れ目から入らせていた様子が、何となく分かった😂
たしかに凹んでいて、枡形になっているようだ。
そして、玄関になる枡形虎口から上の本曲輪は、この有様😂
視界ゼロ…
しかし、ここにも無線施設がいくつかあるので、道あるやろと思って凸撃💨
それでも、北端近くに立つ無線局の建物まで、ヤブは途切れていなかった…
ここからは、最初に見た虎口状から退出する。
保守道なので階段が付けられている。
ここが往時からあったのか後補なのかは、よく分からない…
この下で堀状が分岐しているように見えたが、北西側は行き止まりになっていた。
曲輪の側も急傾斜で、後補だろう。
その上に西曲輪があるが、登るの大変そうだし、ヤブが広がっているだけっぽいので、やめた。
退散〜ん💨
とにかく麓からの比髙が330メートルとなると大軍で攻め込むのは大変そうで、伊達政宗をして攻め込むのを断念せしめた防御力の源泉の一つがこの大きな比髙にあったことは間違いないだろう。
そして、これだけ比髙のある山なのに山頂は広くてわりと平坦、千人単位の軍勢で守るような城のように見えた。
さらに上杉景勝の援軍も駐屯しているとあっては、いかな伊達政宗でも迂闊に攻め込めなかったのは納得。
ラストは、その防御力の源泉たる高さを実感できる、帰り道から見えた『会津のマッターホルン』蒲生岳✨
なるほどそんな感じだし、裾をなだらかに引いている様子は富士山にも…
要害山はさらに160メートルばかり高い。
道から正面に見えるっ😮
この要害山とか蒲生岳とかが『只見四名山』なんて呼ばれている理由が、少し分かったような気がした。
★水久保城
福島県南会津郡只見町只見
テレビ塔線の最上部に普通車1台分の余地有。JR只見駅前から登山コースあるが列車は1日数本。
山城
(2024年11月13日 記)