松前藩が1868年秋に築いた。直後に箱館戦争が始まると藩主一族がこちらに移転したが、同年11月5日に松前城が陥落すると攻撃目標となり10日後に陥落した。藩主らは3日前に江差まで退避していて、残された60名ほどが松岡四郎次郎率いる200名と白兵戦を戦った末のことだった。箱館戦争ののち再築城の動きもあったようだが、実現することなく廃藩置県を迎えた。
いまは国の史跡。
残暑逃れのために新幹線で乗り込んだ北海道遠征もこれで最後、少し時間が出来たので上ノ国から帰りつつ立ち寄ることにした。
城は説明板や標柱がないとどこにあるのか分からないような、道端の広場にある。
とりあえず、車道からみると井戸跡や石碑などが見えて、何かの遺跡なことは見えてくる…
本丸への入口に立つ標柱。
入口の反対側には案内図と説明板。
説明も簡素。
少し入ったところに城址碑。
昭和四十三年(1968年)に厚沢部町長と松前家により立てられたとある。
中央部分には、直径5メートルぐらいありそうな井戸が😮
南西の端の方には「三上超順力試之石」
丸い大きな石が台座に乗っかっている。ワタシには少し揺らすのが精いっぱい…
本丸の先の方には、一段低くなって爪先のような形の米倉跡。
段差は30cmあるかどうか。
ここまで城郭のような土木の跡がほとんど見えなかったが、本丸〜米倉の西側には、ごく細い堀が残っている😮
薬研のVは見えているけど、か細い…😮
東へ進むと分かりにくくなっている…
ここから城の東側へ入るとまた見えるようになるが、15メートルぐらい南で埋もれて分からなくなっているようだ。
城址碑の裏で終わっている感じ。
で、城はこれだけかと思ったら、道の反対側にも広がっているらしい…
見に行ってみると…
何じゃこりゃ😂
高さ5メートルぐらい、三重の天守が😂
しかし桜の木の中に埋もれてると思ったら、全体を見渡せる場所があったわ😮
その横には「館城跡ミニ資料館」と銘打ったショーケースが…
で、問題はこのウラ。
何だこりゃ?😮
チビだけどスラリと長い空堀じゃ〜🤯
これは百間堀。
城の南側を守るつもりで築かれたのだろう。
さらに東にも、一直線💨
城は恐らくこんなところだろう。
帰りの新幹線までは少し時間があったが、他に寄れるところは無かったので、これにて帰陣っ💨
幕末にあれだけ立派な松前城に戸切地陣屋を築いた、同じ松前藩の築いた城とは信じられない、というのが正直な感想。
正義派のクーデターから五稜郭〜松前城そしてこの館城と続いた敗戦・撤退の様子を見ていると、あれだけ先進的な戸切地陣屋を築いた力も気概も、もはや藩には残っていなかった、というところだったのか?😢
★館城
北海道檜山郡厚沢部町城丘
現地説明板には駐車場表記があるが実際は路肩が広がっているだけ。
平城
(2024年10月14日 記)