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鴫山城は会津田島の中心地から南の方、旧南会津郡役所の裏山一帯を占める城。戦国時代から江戸時代初期にかけて使われた曲輪群の他に、愛宕山周辺の詰城や東西の尾根上に外壁塁などの遺構を残していて、かなりの広さと比高を持っている。

築城年代は不明だが長禄三年(1459年)の記録にその名が見えるという。築城者はこのあたりに勢力のあった長沼氏と考えられている。長沼氏は下野の強豪小山氏から出て南北朝時代からこの地を領有して戦国時代に至った。最後は伊達氏の麾下にあって西の方の伊南を本拠地としていた河原田氏と抗争していたが、天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置で伊達氏とともにこの地を去った。代わって蒲生氏郷麾下の小倉作左衛門、続いて大国実頼(直江兼続の弟)が城代となった。

寛永四年(1627年)に一国一城令で廃城。


思いがけず3連休が取れたので、GWにオフ会で訪問しながら記録を取れなかった久川城の追試をメインに据えて前夜発でこの地に乗り込み、最初のターゲットにした。

登り始めは午後1時過ぎだったのに、概ね全域を回って下山した時には午後6時近くなって、エライ時間を食った😅


車を停める場所に困ってウロウロするのがいつものパターンだが、旧南会津郡役所の駐車場が利用できるとのこと。

旧郡役所は珍しい洋風建築。


郡役所としての使命は大正時代に終えたが、その後も福島県の支庁舎などとして使われ続け、県指定の重要文化財。

隣に立つ県の合同庁舎は、昭和風の校舎みたいな建物。


この隣に鴫山城の外郭遺構があるというので、入ってみる。

敷地の東側の端に、外郭遺構の説明板が立つ法面がある。


これが遺構か…?

などと思いながら、右の方から登ってゆくと…

なるほど😮


奥の方に、段が折れている様子が見える。

見れば、段の上に登ったところのすぐ横から、直線的な段差が東に向かって伸びている。


この左手は畑だが、かつては空堀が沿っていたとのこと。

奥の方には、直角の折れ曲がり。

いかにも城という雰囲気でカッコいい✨


斜めに登ってゆく道のようなものがあるので登ってみると、広い曲輪のようになっていた。


ここは城外側に向かって突き出すような形になっていて、ここに兵を駐屯させて詰めかかる寄せ手と戦わせる曲輪だったのだろう。

ここへの登り口は少し掘り込まれていて、簡素な坂虎口のような感じ。


この外郭遺構は城の西側を守る西外壁塁から続いているものらしいが、山側はヤブで踏み込めず、奥の方は分からなかった。

ここから城内に続く道などはなく、隣の山にガサガサ入り込んで森の中をムリヤリ進むしかなさそう。

ここは戻って、城の大手を目指した。


会津田島 鴫山城 その2に続く)

 

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(2024年7月4日 記)