武田神社の東側に広がる大手の曲輪群を見に行ったついでに、すぐ北の竜華池畔に構える遊亭も見に行って、すっかり満足して降りてきた次は、ふたたび団体旅行中のシーンに戻って武田神社の北の方に広がる遺構たちを見に行ったようすを。
この時の見学時間、残り20分…💦
北の方は発掘調査なうのところが多いが、南端付近に敷かれた歩道から発掘現場を見学できるようになっている。
曲輪の中に入ることは出来ない。
入口は公園のような雰囲気で、ベンチとテーブルも置かれている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/17/diis2002v1/26/fe/j/o0800060015448976073.jpg?caw=800)
ここは御隠居曲輪の南端にある枡形かな?
20メートル四方ぐらいの平坦地の周囲に、石垣の嵌め込まれた段が伸びる。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/17/diis2002v1/51/85/j/o0800060015448976090.jpg?caw=800)
ここは右側が無名曲輪、左の手前が稲荷曲輪、奥が味噌曲輪だろうか。
堀らしい溝には折れが入り、段には石垣がはめ込まれている。
かなり大掛かりな土木工事が施されていたんだな😮
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/17/diis2002v1/6c/38/j/o0800060015448976105.jpg?caw=800)
北側の西に広がる味噌曲輪か。
発掘されて積み直しを待つ石が積み上げられて、いかにも発掘なうの雰囲気。
ここも奥に見える段に石垣がはめ込まれているな…
けっこう全面的に石垣が使われていたらしい。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/17/diis2002v1/83/79/j/o0900050615448976121.jpg?caw=800)
西側の土塁の外は、もう日常生活の場。
土塁を挟んで雰囲気が変わっているの、なにか象徴的な…😮
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/17/diis2002v1/0b/fc/j/o0800060015448976138.jpg?caw=800)
まずは、北に開口している虎口土橋コンボ😮
シロウト時代に入ったときも、カチッとした形にビックリしたものだった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240617/22/diis2002v1/13/f4/j/o0800060015452815228.jpg?caw=800)
土橋の途中から左右の堀を見下ろすが、こちらも🌿🌿で覆い尽くされていて、倒竹もあるようだ…
武田神社の南半分から北の方の堀は、断面が大きくよく残っているが、概して荒れているようだ…
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/b5/b2/j/o0800060015449071962.jpg?caw=800)
土橋を渡ると、これまたしっかりした食い違いを持つ枡形虎口が待っている。
両側を狭めている土塁には石がはめ込まれていて、往時は大手で見られるような石塁だったのだろう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/18/4c/j/o0900050615449071982.jpg?caw=800)
枡形の中。
右に食い違わせた位置に西曲輪への入口が開口している。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/cc/8f/j/o0800060015449072017.jpg?caw=800)
西曲輪への入口を絞り込んでいる、右側の塁壁。
ここの石垣はしっかりしている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/76/4e/j/o0800060015449072042.jpg?caw=800)
西曲輪は、大観光地の一つとも言える武田神社から堀を挟んだすぐ隣とは思えないほど静かな空間で、雰囲気もずいぶんとワイルドだった。
西の方に石碑も立っている。
そして武田神社のある本丸との間に横たわる空堀のデカいこと🤯
まぁ山城でよく見る薬研堀なので、いつも見ている山城より際立ってデカく見えるだけで、武田神社前の水堀と同じぐらいの規模だろう。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/8e/87/j/o0800060015449072133.jpg?caw=800)
この西曲輪は上下二段からなり、一段低くなった南側はさらにワイルド😮
ここは中央やや南で仕切られていたのか、西からそれなりの高さの土塁が伸びてきている。
東の方には続いていないが、往時はどうだったのだろうか…
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/fd/01/j/o0800060015449072167.jpg?caw=800)
残るは、西曲輪の南を守る枡形虎口。
ここも動線を絞る塁壁に石垣が嵌め込まれている。
枡形内から曲輪内を望む。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/00/7e/j/o0800060015449072219.jpg?caw=800)
ここも、土塁を切ったところにちゃんと石垣が嵌め込まれている。
外側は、土塁の切れ目から土橋で出てゆく。
ここも内側外側の出入口が食い違っている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/a8/7a/j/o0900050615449072261.jpg?caw=800)
両側の土塁は高さ3メートルを超えるかというような立派なもので、じつは西側に石段が設えられていて登ることができる。
見るからに放置されてる代物😂そのうち立入禁止になるかも…💦
踏跡が西へ伸びる土塁上に続いているが、ここはワタシがいつも見ているような光景😂
西曲輪の最後は、外に渡る土橋上から。
単純な矩形ではなく、折れが入っていたのね😮
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240608/21/diis2002v1/fc/28/j/o0800060015449072273.jpg?caw=800)
旅行で見ることができたのはここまでだったが、翌週の追試で、残る梅翁曲輪も見てきた。
ここは武田氏滅亡後に増設された曲輪で、松木堀と呼ばれる堀や土塁で周囲を固められている。半分ほどは宅地化されたが、南側が発掘調査&整備されたらしい…
旅行のあとに追試しようと思ってGoogleマップ上で探し回るまで、ここの存在を知らなかった…😂
神社前から南西の住宅地に入り込んで、すぐに…
この左側に土塁のようなものが沿ってくる。
右側は住宅も建っているが、すっかり曲輪の雰囲気。
そして、右の方へ一直線に伸びる土塁が見えてくる。
これは曲輪の南辺の土塁。
基部に石積みがあるのが特徴で、発掘調査で出てきた基部の遺構をもとに土塁の規模を推定して復元整備したとのこと。
土塁に沿って東西に細長い園地が整備されたようだが、だいぶ荒れている😢
奥の方に見える説明板の前から、20メートル四方ぐらいの草ぼうぼうの空間が広がっていた。
足元には、発掘調査で見つかった集水口がそのまま残されていた🤯
土塁を少し削って集水溝や土塁そのものの構造を調べるなど、かなり大規模な調査が行われたらしい。
その後一旦整備されながら、荒れつつあるのは残念至極…😢
道に戻って、虎口から外に出る。
見つかった石積の一部が復元整備されたのだろうか…
外には立派な堀✨
これが松木堀だそうだ。
一部護岸されているが、城郭らしい堀の雰囲気はしっかり残っている✨
底には水が溜まってるな😮
南西の隅から梅翁曲輪の方を眺めていて、横芝光の岩室砦を思い出したりして…😂
ここから西の方はヤブと灌木の中に埋もれ、見学不能な状態だった…
こちら側は訪れる人もまばらで、あまり一般に知られていないようすだった。
「人は城、人は石垣…」の信玄の言葉は、読みようによっては城は簡素でよいとみえ、他の戦国大名の居城と比べると簡素なイメージだった。
しかし、実際に見てみると堀や土塁で仕切られたかなりの広さの曲輪を擁していたばかりでなく、武田氏滅亡後もしばらく甲州統治の拠点を担っていたとのことで、戦国大名の居城にふさわしい規模も持っていたことを改めて知った😂
【完】
★躑躅ヶ崎館
山梨県甲府市古府中町
神社の周囲に3ヶ所の駐車場があるが、訪問者の数と比べて極めて少ないので注意。
平城
(2024年6月20日 記)