高館城は大田原市を流れる那珂川の左岸に広がる低山中に佐久山館要害と並ぶように構えていて、自然公園になっている。
源平合戦よりも前に那須与一の父資隆が築城し、梶原景時に攻め込まれた時には水源を絶たれた為に白米で馬を洗って水があるように見せかけたという伝説も残っている。
越後〜会津と辿ったGWも最終日になったので、このあたりの城をいくつか訪問して帰ろうと思って探していたら、佐久山館要害と隣り合っているのを偶然見つけたので行ってみた。
またこの行き当たりばったり…😮💨
高館城の下には駐車場がある(8台分)。
またここは「関東ふれあいの道」2コースの起点ともなっている。
駐車場のすぐ奥が城への登り口で、案内もある。
この道の右側が、すでに城塁。
だいぶ上の方に曲輪が並んでいるようすが、何となく見える。
そちらの方へ登ってゆく虎口が、すぐにある。
虎口の前には案内が立っている。
すでに主郭は多目的広場、北の方の曲輪は展望台の扱い…😂
虎口はごく浅い谷のような感じで、この階段でうねりながら主郭に向かって登ってゆく。
途中、右側にかなりの幅がある帯曲輪。
主郭から下までつづくらしい急斜面の下に、かなり奥まで続いている。
ヤブもそれ程でもなさそうなので、少し入ってみる。
外側の切岸の下に、駐車場まで登ってきた車道が見えている。
一番奥まで行くと、幅の広いバンドのまま登って、上の曲輪の切岸にぶつかる。
高さは7メートルほどだろうが、かなりの迫力😮
左側に平場が見えてくるので入ってゆくと、主郭下に連なる馬出のような曲輪に出た。
浅い空堀のようにも見えるが、外側に広いスペースのある二段構造になっている。
ここを奥に進むと、先ほどの階段道の上の方に出る。
階段道のすぐ下には、馬出のような曲輪がもう一つ。
このあたりから見おろすと、自然地形らしい谷がうねりながら登ってきている。
階段道も、同じようにうねっている。
ガッツリ土木工事したような感じではないが、自然地形を上手く活かして、下から侵入されたときに上から斉射できるよう作ってるな…
高いところにある二つの馬出から、谷を登ってくる寄せ手に矢弾を浴びせて守っていたのだろうか。
土木工事は馬出の周りに施された跡が見えるぐらいだが、なかなかに厳しい守りだ😮
ここから、主郭までは階段数段。
坂虎口のように斜めにつけられた階段を登ってゆく。
そして登りきると、
…あれ?
自然地形のまんまみたいな…😮
それでも、いちおう段に加工されたようにも見える斜面で囲まれている。
どうやら、ここは主郭下の最後の帯曲輪らしい…
そして、主郭。
あずまやにだいぶ占領された感があるが、それなりの広さはある。
隣には、城址碑と説明板が並んでいる。
城址碑は昭和二十八年(1953年)に立てられたもの。
那須資隆の築城と、梶原景時に攻められ落城したときの経緯が、説明の中心。
隣の説明板。
こちらには城の構造などについても言及がある。
主郭からは、南と北にある曲輪に向かって、それぞれ歩道が続いている。
まずは、南の曲輪へ。
ヤマツツジも、そろそろ終わり…
南の曲輪は、尾根をかなり広く削平した、長さ50メートルぐらいはある広大な曲輪だった。
東側の斜面は相当急傾斜で、切岸か盛り土の加工がしっかり施されていたようす。
先ほど帯曲輪のトバ口まで行った西の方は、ず〜っと帯曲輪が続いていたようで、曲輪の南端まで一緒に来ていた😮
曲輪から降りると、下には別の駐車場があった。
けっこう本腰入れて公園に整備していたらしい…
つづいて、北の曲輪っ💨
草の中を降りてゆくと、あずまやと展望台の立つ平場があった。
ここが城の北端の曲輪。
東側の斜面、今は草にも覆われて大人しく見えるが、往時の雰囲気はしっかりと残している✨
この曲輪に設えられた展望台は、まだ新しい。
これが無くても、樹林の隙間から遥か遠くまで見渡せる。
北側を監視する役割を負っていたのだろう。
さて、この城はこんなところだろう。
すっかりトラクター道になった虎口から退散っ💨
手の込んだ縄張りや土木の跡は無いが、自然地形を上手く活かして防御力を高めている印象。
本当に那須資隆や与一の時代の姿かは分からないが、戦国時代の城のような感じでもなかった。すっかり公園の装いになっているが、よく見ると面白い城だろう。
この後は、すぐ隣の佐久山館要害へ💨
★高館城
栃木県大田原市大輪
城の直下2ヶ所に駐車場あり。比高も30メートル程度。
山城
(2024年5月22日 記)