神指城は会津若松の市街地から北西の阿賀川沿いに土塁などの一部を残している。
会津若松城に代わる新たな居城として上杉景勝が築城を始めたが、これが関ヶ原合戦のきっかけとなる徳川家康の会津遠征を招き、時代が近世に向けて大きく動く引き金を引いた。城はけっきょく完成することなくそのままにされ、戊辰戦争のときにはここで新選組が新政府軍を迎え撃って敗れている。
城があった面影と言われれば、確かに土塁のかけらのような土盛りがあちこちにあって、大海原に浮かぶ島のようにも見える。
翌日に南会津でオフ会を控えていたので早めに会津まで入り、時間ができたので一回りしてきた。
まずは城の南東端あたりから、二の丸土塁と本丸の遠望。
Googleマップ上で二の丸土塁となっているのは、城の南端中央屋や東よりの土塁の一部だったのだろう。
今は北に少し裾を引いている小山のようになっている。高さは4メートルほどあるか。
北側の裾から見上げる。
ここは農業機材置き場らしい建物の裏手。
建物には近寄らないよう、周りを荒らさないよう注意。
続いて本丸へ、と行きたいところだが、まずは南西の如来堂へ。
ここには二の丸南西の櫓台のようなものがあったらしい。
如来堂は新選組殉難地でもあり、その案内が立っている。
うねうねとカーブする道を進んでゆくと、新選組殉難地の案内が…傾いている😢
一見して少し高くなっているが、少し離れて周りの田んぼとの段差を見てみると…
なるほど🤔
確かに土塁のような感じ。
殉難地である如来堂の方へ入ってゆくと、いちばん手前に西を向いた地蔵二つ。
奥に如来堂か。
だいぶ傷んでいるようす…💦
ここに生えるイチョウの大木がスゴい🌲
如来堂のイチョウとして、自然景観指定緑地となっているらしい。
如来堂の奥には八幡神社がある。
さて本丸だが、私有地で入ることはできないので、周囲を通る道から塁壁などを遠望することになる。
殉難地へ100mの案内から少し近づいたあたりから望む本丸は、まったく雑木林…
しかし、その中に埋もれている土塁らしい高まりは、4メートルほどの高さがあるようで、しかも南西あたりはほぼ完全に残っているようだ。
少し行ったところのここは、本丸の南西側で堀を渡っていた土橋の名残か…
今は中に小さな墓地があり、そこへの道になっている。
今の田んぼの畔などは城の縄張りとは合っていないようで、本丸の西側で堀の痕跡を探しても今ひとつ分からないが、正面に見える本丸の西の方をなぞるように手前から伸びていたのだろうか…
北西の端まで行くと、天守閣予定地の木碑が立っていた。
土を積みかけだったのか、奥は高くなっているが手前側は低い。
ここから北西の方に目をやると、こんもりとした土盛りが見える。
あれは二の丸北西土塁だという。
入口のある西の方へ回り込んで、奥に高瀬の大木を従えて。
この土塁にも西から入る事ができる。
天端が墓地になっているようなので、これまたサッと見てゆくだけにする。
高さ4メートル、堤脚の広がりは20メートルぐらいあるか。
さて、向こうに見える高瀬の大木でラストにするか。
ここは二の丸の北東の隅にあたる。
近づいてゆくと、確かに土盛りされていた。
なるほど土塁だったらしい。
裏側へ回ると、城の説明板があった。
戦後くらいまでは本丸と二の丸の二重四角形が上空から見えるほど残っていたらしい。
ここは東側から登ることが出来る。
高瀬の大木はこの巨大なケヤキで、神指城築城のときに土塁にしたところに生えていた大木という。
幹の太さがスゴイわ…😮
大木の前のあずまやから南の方を見ると、確かに土塁の天端。
今は私有地立入禁止となった本丸と周囲の二の丸土塁の断片ぐらいしか残っていない神指城。
戦後に痕跡の大半を消し去った圃場整備などを恨めしく思うか、城の規模や完成予想図などを妄想できる形にうまく残ったと思うか…
ともかくも、歴史に1ページを刻んだ城の遺構が今も残っていることだけは、間違いないようだ。
★神指城
福島県会津若松市
車を停める場所なし。天守閣予定地前の進入禁止柵の直前に停めて短時間で見て回るか。
平城
(2024年5月20日 記)