龍会城は鹿島神宮の駅から北に県道18号を進んで東側の山之上地区の台地の縁にある。
平国香に始まる平姓鹿島氏の城であったが築城時期は不明、天正十九年(1591年)に北の佐竹義重に当主を謀殺されたうえ鹿島城とともに攻撃され落城した。鹿島城の若君と恋仲だったこの城の姫が、佐竹氏に攻め落とされ悲しみのあまり田谷沼に身を投げてしまったという伝説が伝わる。
アプローチは鹿島神宮の駅前から北上、あるいは鹿島サッカースタジアムから西に入ってゆくことになるが、駐車場がない。
車で訪問するときはやむなく路駐ということになるが、できるだけ短時間で済ませるようにしたい。
(道幅はそこそこあり、交通量は少ないがある)
かつては腐朽して倒れたり立て直されたりされたのが立っていただけだったらしいが、地元が目をかけてくれるようになったらしい😊
で、向こう側のヤブ野原の向こう…
うわっ❗でか土塁っ🤯
高さ3メートルはあろうかという、相当な高さの土塁が、道の脇から右はるか奥の方まで続いている。
この城でいちばん驚かされるのは、ひょっとしたらこの第一印象かも知れない。
せっかくなので、道端からナメまわしてみるか…
郭内は🌿🌿は多いが、まだ寒い時期だからか地面が見えないほどではなく、奥まで入ってゆくことも出来る。
100メートルばかり進んだところ。
土塁の高さは全く変わっておらず、崩れたような凹凸も無さそう。
保存状態は良いようす。
郭内は、道路沿いは平坦だが北西の奥の方に入ってゆくと微妙な凹凸がある。
土塁の内側に、幅20メートルの低くなっている部分が伸びる。
傾斜がゆるゆるなので分かりづらいが、深さは人の背丈ぐらいか…
外側は再び高くなっている。
城内の道路まで地ならしされているが、木の根が埋まっているわけではないので、土盛されたものではない。
もしかして、ここにも整備の手を入れてくれているのか…✨
この近くで、土塁に切れ目が入っている😮
すわ虎口かっ💨
と思って外へ出てみたが、切岸加工されたか段丘のまんまの急斜面が広がっているだけで、下へ降りる動線らしいものは無かった…
ここから先は、植林が密で下草も濃いぃので、入っても遺構が見えない…
土塁の切れ目の西側には、天端への動線を入れようとしたか後に生えた木が倒れて根が起きた跡か、土塁上に登れる場所がある。
木の葉や草の根で覆われていて、普通に歩いていれば土が崩れる心配は無いが、慎重に登る。
鋭いね〜🙌
天端の幅は1メートルほど。
踏跡がついてる…
同じように土塁に登れそうな場所は、他に2箇所あった。
同じように枡形のような掘り込みを入れた感じのやつ。
そして、土塁天端の内側1mも下がらないところに幅1〜2メートルの武者走り状が入っている。
いやはや、なかなか凝ったつくりをしている😮
この城は台地の突端を囲むように土塁が築かれているようだが、こっち側だけでもこれだけの遺構が見られたんだと、他もそうとうなのかも知れない。
そう思って、道路の反対側に入ってみることにした。
ただ、灌木のヤブは北側よりも確実に濃いぃ😅
こちら側にも、土盛や掘り込まれたりしたらしい跡がある。
底から土盛のてっぺんまで3メートル近くありそうで、北側よりも高低差があるな…
灌木のヤブがある分、南側の土塁に近づくのは北側より苦労する。
何とか到達しても、ヤブで土塁の全貌がよく分からない…
それでも、やはり土塁に登るらしい掘り込みは、こちらにもある。
というより、土塁から内側に向かって竪堀みたいなのが2本並列に降りてるな…😮
土塁に刻まれたウネタテ(っぽいやつ)は初めて見たが、残念ながら灌木が多くて雰囲気程度…
目の当たりにするとオオッってなるかも…
土塁は北側と同じように奥まで続いていたが、あまりにもヤブが濃くて遺構が見えなそうだったので、ここまでで撤収した。
この城は完成しないうちに佐竹氏に攻め込まれて落城したというが、確かに曲輪のあちこちにある微妙な凹凸などは、広大な台地の中を区画するために堀や土塁などを築こうとして中止された跡のようにも見える。
台地の基部には城の内外を区画する空堀も掘られていたようだが、気づかなかった…
ともかくも土塁の規模はかなり大きく、登降するためらしい竪堀状や天端内側に武者走り状まで設けられるなど、他では見られないような凝ったつくりをしている。
じつは掘り出し物かも知れない。
★龍会城
茨城県鹿嶋市山之上
車を停める場所は付近に無い。鹿島神宮駅からたと徒歩30分ぐらいか。
丘城
(2024年3月28日 記)