神宮寺城は霞ヶ浦の中央やや東側の南岸から3kmほど入った台地の上にいくつかの曲輪、空堀、土塁などを遺している。
建武新政が失敗して南北朝の対立が始まって間もなくの延元三年(1338年)9月に南朝の北畠親房がこの地に漂着し、この地の地頭東条氏の援護でこの城に拠点を構えたが、1ヶ月ほど後に北朝方の攻撃で落城したという。
今残っている遺構は堀の幅や土塁の高さなどが大きく、戦国時代の城のように見える。
この日は午前中に訪問した。
成田空港に着陸する飛行機が上空をひっきりなしに通過してゆく中での訪問だった。
成田空港に北から着陸進入するとき、東から飛んできた飛行機がこのあたりの上空で左旋回してゆく。ファンの間で「稲敷ターン」とか「稲敷ひねり」とか呼ばれていることを後で知った。
望遠レンズ持ってないんで飛行機の写真はナシで…😅
県道沿いに「神宮寺城入口」という白い標柱が立っている。
たいへん分かりやすくて良いのだが、中は土がうず高く積まれて、土建屋の敷地みたいにも見える…
車を停めておくことは出来るらしい。
その横に、ちっこいながらも空堀と土塁のセットらしいものが…
奥に行くと、虎口のような切れ目も…
ここから入った城の手前のスペースは、どうやら外郭のような感じのところらしい。
そして…
もう、見えてます…
土塁と、手前に空堀が這ってるのが、駐車スペースからも…😮
見事な折れ〜🙌
今の城入口から左に伸びる空堀が、すぐに南へ折れて造形美を見せている✨
これは主郭の北東辺にあたるところ。
右側に伸びる空堀は、直線状。
こういう溝状は植林にうってつけなのか、杉の木がボコボコ…
郭内へは、正面の土塁に埋め込まれたハシゴを登ってゆく。
登って、主郭を一望🙌
野球の内野の南北を倍くらいにした広さ。
左側の土塁上には、大正時代に立てられたという「北畠准后唱義之処」の石碑。
右側の土塁はデコボコしながら真っすぐ西に伸びている。
中に入ってみると、東側、北側の土塁の裾が空堀のように掘られている。
東側
北側
土塁の内側に空堀をいれるのは八ヶ岳南麓の谷戸城や白老の仙台藩陣屋で見かけたが、珍しい配置だと思う。
西の方は荒れた竹ヤブになっている。
北辺の土塁も切られていた😢
ここから西にあった遺構は失われたらしい…
主郭の南の方へ。
南辺の土塁は北のより立派に見えるぐらい…
隅の土塁に切れ目が入って、外へ出入り出来るようになっている。
よく見ると、右側より左側のほうが高い…
左側は主郭の南東隅だが、櫓台のように盛り上がっているのではなく、北の方から同じ高さで入ってきている。
ただ、末端は櫓を置くくらいのスペースはある感じ。
その東側の空堀、これがまた実に立派なんだが、ヤブっぽくて見栄えしないのが残念…😢
土塁の切れ目はいかにも後世にぶった切ったように見えるが、外に出てみると…
まずは立派な空堀が横断😮
特に右手に見える空堀が、深くて見事✨
そして、外の曲輪との間は土橋で横断し土塁の切れ目から中に入ってゆくようになっている。
立派な虎口やないかい😮
この空堀、西の方では竹ヤブに入り込んでいるように見えるが、実際どうなのか…
行ってみると、確かに倒竹がパラパラ…
しかし、左に折れてないか…?
折れてる〜🙌
その先は倒竹がさらに増えて、荒れた様相…
でも…
またまた折れてる〜🙌
こんどは右。
倒竹に埋もれるようになって一層わかりにくくなっているが、主郭と南の曲輪との間に横たわるこの空堀、左そして右とクランク状に折れつつ西に伸びていた😮
その奥は倒竹が凄すぎるし、先は多分民家の庭だろう…
これ以上は突っ込めそうにない…
この空堀の外にも広い曲輪が広がっているが、まさに手入れなう、な雰囲気…
あまり踏み込んではいけない領域のような感じ…
せっかくなので、土塁の上からではヤブっぽくて見栄えしなかった、主郭東側の空堀へ。
虎口横の土橋から空堀に降りる。
東の方は荒れた竹ヤブの中に埋もれているが、主郭の東隣の曲輪も仕切るよう直線的に伸びていた。
なかなか立派✨
主郭東辺の空堀へは、虎口のように狭くなったところを通り抜けるようになっている。
ここを通り抜けると、素晴らしい空堀がっ🙌
外側の曲輪のある右側が低く、左の主郭側は土塁で盛られた分だけ高くなっている。
倒木で少し荒れているけど…
南北朝時代に北畠親房が籠もったとはいえ、土塁も空堀もデカすぎるような感じ…
やっぱり戦国時代あたり、合戦に鉄砲が使われるようになる前ぐらいの遺構のように見える。
このあたりの城では訪問しやすく、ほどよく手入れされて遺構が見やすい、第一に訪問したい城だろう✨
★神宮寺城
茨城県稲敷市神宮寺
県道からの入口すぐに駐車スペースあり。ただ工事で出たらしい土砂の置き場になっているらしい。
平城
(2024年3月3日 記)