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鮭延城は真室川の中心地から南に5kmほど、県道321号が真室川を渡る真鶴橋あたりの東側の山中に構えている。
戦国時代、天文年間に出羽国中部を支配していた小野寺氏麾下の佐々木貞綱が城主となり、かれは地名にちなんで姓を鮭延氏に変えた。後に最上氏の攻撃を受けて降伏して麾下に入り、元和八年(1622年)に最上氏がお家騒動で改易されるまで居城としていた。
Wikipediaに記事がある。
近くに駐車場は無いとのことなので、真室川の街の対岸にある公園の駐車場に停めて、徒歩で訪問した。
前日は梅祭りだったらしいが、この日はガランとしていた。
徒歩30分ぐらいか…
真室川を渡る県道321号の橋の正面になるこの踏切を渡って、薬師堂のある集落の方へ行く。
後で知ったのだが、踏切を渡ってすぐ左折すると大手側の入口に出る。ここには駐車スペースもある。この記事の最後にて…
→現在位置
集落に入ると間もなく、左手に搦手門跡の標柱が現れる。

しかし、ここから登ってゆくコンクリ道、どう見ても人の家に入ってゆくようにしか見えない😮
入って大丈夫なのか…?

果たして、ココは入って良い場所なのだろうか…
と心配しながら登っていき、右の方へ入ってゆくと、途切れたコンクリ舗装の上の方に、本丸を指している標柱が見えてくる。
これだけで安心できる。ホント有り難い🙇
左に折れる道を登ってゆく。

道は杉の葉が積り、階段も付けられているが少々荒れ気味。
それでも歩きやすい😊

ちょっとしたつづら折れを登ってゆくと、やがて上の方に切岸らしきものが見えてくる。
この城は主郭一つが大きな面積を占めていて、その南西の方だろう。
さらに登ってゆくと、上の方に虎口らしきが…
一見中央部に凹が見えて削平が甘いのかと思ったが、城道側を土塁で守っていると見ることも出来そう…
では、主郭へ入る💨
けっこう深く掘り下げられた中を登って入る坂虎口。

主郭は、野球も出来そうなほどの広さがある草原だった。
縄張図で見ると、この主郭だけで城内の大半を占めているが、そんな感じだ…

畑になっていた時期もあったのか、🌿🌿の育ちが良いように見える😮
登ってきたところには道標が立っているが、道や踏跡などは見えない…
西の方を指して「薬師堂」と案内が出ているが、そちらの方に堀切があるらしいので、まずはそちらへ行ってみることにした。
主郭に踏跡らしいものはなかったが、曲輪の端のほうまで行くと道らしいものが現れ、曲輪の端っこから西の方に降りていた。

左側には土塁が伸びている。
その端っこを削り取って動線を通した、虎口らしい。

虎口を出て、ハッキリとした道を降りてゆくと、ほどなく…
なんか、スゴいもんが見えてきましたゾ…😮

めっちゃV字の堀切🤯

この堀切を西の方に降りてゆくと薬師堂があるらしい。
薬師堂は、先程登ってきた搦手口よりもさらに新庄寄りから、小さな沢に少し入ったところにあるらしい(見ては来なかった😅)
この道が往時からあったとすると、この堀切は単に南側に対する守りだけでなく、西側の麓との間を連絡する役割もあった事になる…
そう思って、反対の東側を見ると、こちらも深くえぐれながら緩やかに降りていってる。
峠道のようにも見える堀切だ…😮

この堀切を渡って、城道はさらに南に続いている。
堀切の反対側へ登ってみると、そこには摩訶不思議な小空間が広がっている…
道の両側に一段高い空間、特に右側が土塁に囲まれている。

土塁の切れ目を通り抜けると、その先には土橋…

その両側には、さっきほどではないが立派な空堀が伸びていた😮
麓までは降りていないように見えるが、それでもてっぺんが広くなった尾根を完全に分断しているらしい。
最初に登ってきた搦手口よりも、こちら側をかなり厳重に守っているのか…?😮
その外側も、さらに…

奥の方で、土塁の切れ目のようなところを通り抜けている…
西の方を見ると、またまた土塁に囲まれた空間…😮

奥の土塁の切れ目を通り抜けた先には、またまた東西に走る空堀が🤯
さっきのよりはさらに浅く痕跡程度だが、東の方

西の方はヤブに覆われかけ、森の中を走っているので見づらい…

それにしてもこの城、台地続きの南側を3本の空堀と、間に枡形や馬出のように見える曲輪を二面挟んで守っている。
広大な主郭一つに見える城と思ったら、南側に対する守りは恐ろしいほど厳重だった😮
このかすかな空堀が城の南端らしいので、ここで引き返すことにした。
残るは東側の大手道っ💨
(真室川 鮭延城 その2に続く)
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(2023年10月15日 記)