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大宇陀の町並みから春日門を通って登ってきた山道は、結局西側から登ってくるコンクリ林道終点に登り詰めていた。

もちろん林道は後補で、大手道の途中に横付けするように付けられたのだろう。

 

すぐ上には説明板が立っている。

2018年に立てられたばかりらしい😮

 

縄張図も描かれている。

 
過去の夜間登城では、ここから虎口を通って本丸、天守台まで往復しただけだったが、実際にもこれらの周囲に多くの曲輪を配置した城らしい。

 

ここから登ってゆくと、道は次第に竪堀状に掘られた中を通るようになる。

近世初頭まで使われた城だが、やっぱり戦国時代の山城と同じで登城道は狭く竪堀状にして、一列縦隊にならざるを得ないようにしてるな…

 

竪堀状を抜けると、左手に奥行きのある横堀が見えてくる。

夜に登城したときにもモバイルライトを向けると浮かび上がってきていたので、かなり大きな堀なことは分かっていた。

けど、奥の方はこんなに折れ折れだったのか😮

 

横堀を過ぎると、奥に壮麗な枡形虎口が見えてくる。

その様子は夜の登城でも印象深かった✨

 

横に説明板がある。

 

この虎口には『雀門』と呼ばれる門があり、城の中心部への入口となる重要な場所だった。

門構えには高麗門と推定される門が立っていて、その後ろに外郭の石垣の折れと組み合わせて外枡形を造り、さらに西側上方にもう一つの枡形を接合した二重枡形になっていた。

 

説明板の後ろには、土に埋もれていたらしい石垣が見えている。

 

石垣の面はわりと平滑で、野面積みというより打込み接ぎのように見える。

 

今は石2つ分ぐらいの高さしかないが、破城で崩されたか…?

 

最初の枡形で左に折れ、石段を登ってゆくと正面が2つ目の枡形になる。

 

ここにも石垣が嵌め込まれている。

 

石がとてもきれいで、発掘調査時に丁寧に清掃されたか、レプリカなのかは見た目では分からなかった。

 

でっでも…

矢穴石アルヨ…😮

 

これは、ワタシが西丹沢でたくさん見てきた石英閃緑岩だな✨

そういえば、高取城の天守台の石垣にも石英閃緑岩が使われてたところがあったっけ…

わりと石垣にしやすい石だったのか…?🧐

 

この枡形の全体像は、西帯郭の方に登って上から見ると、よく分かる。

残念ながら西帯郭は立入禁止になっているが、規制線のギリギリ内側に張り付いて見下ろす…😅

 
虎口を登って上の平場が虎口郭、そして西に続いて御加番郭。
登りついてみると、これらは一続きの曲輪に見える。
 
ここの南端に立つと、大手虎口の手前で横目に見た空堀を、上から見下ろすことができる😮
確かに、ヒダヒダのような折れが入っている。
そして、空堀から内側の城域を見せるために、植林が伐採されたようだ。
 
縄張図には、この横堀の向こう側にもかなり広い曲輪が描かれているが、ちょっと入れそうな雰囲気ではない…
植林なのでムリヤリ凸撃すればイケる…?😅
 
この御加番郭の西端に、下から登ってくる竪堀状がある。
下から登ってくる動線のようにも見えるが、縄張図には何も描かれてない…
 
振り返れば、大きな本丸の盛り上がり😮
中央が登り口らしい。
 
登り口は坂虎口のようで、しっかりとした道が踏まれている…
 
脇には…
これも石垣かいな?😮
 
そして、坂虎口を登り切ると、そこが本丸だった😮
思ってたよりキレイに真っ平ら、奥に天守郭が見えていた。
 
ここには本丸御殿など複数の建物があったらしい。
 
正面の天守郭へ。
 
ここも石垣は人の背丈ぐらいまでしか残っていない。
 
右の方に見えた登り口。
側面がちゃんと石垣で固められている😮
 
ここから天守郭に登る。
大きな木に見守られた、意外と小ぢんまりとした空間…
 
さすがに城の中心だけあって、大きな石碑が2つも立っている。
どちらに刻まれている人物も、ググってみたが不明…


往時は、ここに3重ぐらいの天守が建っていたらしい。

今は建物の面影はないが、城内最高所で周囲が伐採されているので、色々なところを俯瞰することができる。
まずは、東側…

裾を取り巻く浅い空堀の向こう側に、三日月形に曲輪が広がっている。
本丸虎口の横から立入禁止になっていて、この曲輪には入れない。
右側奥の樹林の中に、二の丸が眠っているようだ。

左端には、東の御加番郭が繋がっている。
北東に降りてゆく尾根を削平して曲輪に仕立てていて、いかにも山城の雰囲気だな🤗

そして、北面にも小さな曲輪が見える。

北面の切岸は高さがあって、降りられるかもしれない斜度だが遠慮したいところだ。

城の見どころはこれぐらいで、立入禁止のところや道のないところが多く、整備は道半ばのように見える。
遺構が見やすくなったのは嬉しい限りだが、急峻な山をこれだけ広範囲に伐採すると、維持だけでも相当大変だろう…

この城は関ケ原の戦い以降福島高晴が城主となったが、大阪夏の陣で豊臣方に内通していた嫌疑をかけられて元和元年(1615年)に改易され、城も破却された。小堀遠州によるその時の書状が見つかっていて、滋賀の長浜城歴史博物館に収められている。
以降は織田信長次男の織田信雄が藩主となったが、この城は藩庁となることなく、近年まで埋もれていた。

ところで、城と星空のコラボを撮りに来た初登城のとき、目的を達したのか?と問われると…
天守郭の横でこんなのを撮っていたけど…😅
城はほとんど木しか写ってないやん…あらら😅
(2020年3月20日撮影)
 
【完】

 

★宇陀松山城

奈良県宇陀市大宇陀春日

訪問者向けの駐車場は無し。道の駅宇陀路大宇陀に停めるのが無難か。

山城

 

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(2023年2月10日 記)